母国の姿を隠さず、誇張せず

母国の姿を隠さず、誇張せず

映像制作プロダクション会社代表・張景生さん

1980年代、中国からの日本への留学ブームが起きたころ、一人の若者が内モンゴルから東京へやってきた。彼は亜細亜大学大学院の修士課程で学び、NHKの中国関係ドキュメンタリー制作チームのアルバイト・スタッフとなった。以来、現在まで、彼は独自の視点で数多くの中国関係映像作品を作ってきた。留学生からベテランのドキュメンタリー・プロデュサーまでの道のりはどんなものだったのか。そして彼自身のこだわりとは。映像制作プロダクション会社の泰山コミュニケーションズ代表・張景生さんに会った。

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――日本に来たきっかけは何でしたか。

  「最初に来たのは1991年です。当時は留学じゃなくて、内モンゴル大学で日本語教師をやっていました。日本の国際交流基金が中国で主催した全国規模の教師研修プログラムに参加して、初めて1カ月日本にきた。本格的に日本で留学できたのは、1993年にある日本の財団法人が中国で行った人材支援プロジェクトの選抜試験に合格できたからです。学費も家賃も財団から支給され、貧しい農村出身の僕にとって本当にとても良いチャンスに恵まれました」

――なぜ日本に留学しようとしましたか。

  「この問い答える前に、まず僕が日本語を勉強するきっかけについて少し説明しましょう。1972年に日中国交正常化してから、両国の国内においてお互いこれまでの不愉快なことを忘れて、新たな友好関係を築いていこうという意欲が非常に高かった。そんな状況の中で、僕は大学受験の時に英語専攻じゃなくて、当時まだ中国で始まったばかりの日本語学科にしました。だから実際日本へ行くまえから日本語を勉強した経験があって、日本文化に関する著作もたくさん読んでいました」

――日本の最初の印象はどうでしたか。

  「飛行機の中から町を見下ろし、夜でもあんなに明るい街を見て、電力が非常に充実している国だなと思いました。当時の中国はまだ電気照明が導入されたばかりで、まるで宝石箱のような夜景を見下ろして、はじめて『発展国』の概念を理解した気がしました。(笑)あとは、やはり街の清潔感や、日本人の几帳面なところなど、ほかの中国人と同じ印象がありましたね」

――最初に関わった中国関係のドキュメンタリーは何ですか。

  「1992年の鄧小平の南巡講話は中国で新たな改革ブームを起こしました。中国社会で起きたさまざまな変化や発展を描こうとして、1994年から約1年、NHKは『中国~十二億人の改革開放』というスペーシャルドキュメンタリー番組を放送しましたが、これの制作に関わったのが最初です。僕は翻訳通訳のアルバイト募集に応募して、それの宿題として出した『鄧小平文献』第3巻の翻訳がプロデュサーに気に入れられ、そのままチームの中で通訳の仕事をするようになりました」

――テレビ局の中に入って、印象的なエピソードはありますか。

  「ちょっとした笑い話がありましたね。番組制作について全くの素人の僕は初めてテレビ局の編集室に入った時に、思わず『こんなにいっぱいテレビがあるんだ』とつぶやきました。その場にいたみんなが大爆笑して、その時の上司が僕の肩を叩きながら『張さん、今日はあなたに第1回の授業から教えよう。これはテレビじゃなくてモニターというんだよ』。あの時は本当になにもわからなくて大変でしたよ」

――制作現場で、どんなことを感じましたか。

  「最初はどうして中国の貧しくて暗い面しか撮らないんだと怒っていましたよ。いや、あれは怒りなんかよりも、恥ずかしかったですね。経済発展が進んでいる地域にはすでにきれいな高層ビルが出来ていて、車もたくさん走っていましたが、実際撮影する時は破れた服を着る貧しい人や、舗装していなくて雨が降ったらすぐ泥まみれになる道路、あとは道端で大声でけんかをする人々などばかり撮っていました。全員日本人の制作チームの中で一人だけ中国人として、自分の母国のこのような現実を映像にしていく。さらに日本の視聴者に観られることを思うと、本当に情けない気持ちでいっぱいでした。最初はね」

――そのあと、変化がありましたか。

  「そうですね。作品を作っているうちに、自分は隠すこともなく、誇張することもない『ドキュメンタリー』というものを作っていることを自覚してきました。さっき話した貧しい人たちのことも、整備されていない町のことも、全部当時の中国においてごく普通の現実であって、逆に私が最初撮って欲しかったきれいなビルや車こそ、いわゆる特権階級と呼ばれるわずか1%の人たちのことにすぎなかったのです。本当の事実は痛々しいかもしれないけれど、それを忠実に記録して、発展に没頭している国にいる人々に対して問題を提示し警告することこそ、僕が一人の中国人として母国のために一番できることだと思いました」

――2007年から08年に放送された「NHKスペシャル 激流中国」を含め、張さんはこれまで多くの中国の農村問題に関する映像作品に関わってきましたが、取材や撮影などを行う時にどうやって出演者とコミュニケーションを取っていましたか。

  「僕は『激流中国』を作る前に、チャン・イーモウ(張芸謀)監督と高倉健さんの映画『単騎、千里を走る』の制作に参加しました。この映画も中国で一般の農民にたくさん出演してもらいまして、ドキュメンタリーに近い部分がありました。その時に僕はチャンさんから農村題材の撮り方についていろいろ学びました。それは取材相手と仲間意識をもち、一緒に作品を完成させていこうという思いを彼らに伝えることです。誰だっていきなりカメラのもった知らない人に日常生活の隅々まで撮られたくないです。だから僕たちは出演者に『みなさんの悲惨な生活を撮りたいのではなく、中国社会が今抱えている問題を忠実に記録したい』ときちんと伝えておきました。そうすると皆さんからいろいろな協力をもらえるようになりました」

  取材を終えて

  18年間の日本での生活のうち、17年間を中国に関するドキュメンタリーの制作に関わってきた張さんは、まさに客観的な視点で母国を見守ってきたメディア人の代表だと思う。彼の言う通り、本当のことを多くの人にしっかりと伝えることこそ、メディアで発信する人の一番の使命でだ。私も彼の背中を見て、いつか自分の目で確かめた本当の中国を世界に発信したいと決心した。

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※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームE」(刀祢館正明講師)において作成しました。

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