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戦時中の伝説が生んだ壁新聞   「石巻日日新聞」常務取締役 武内宏之さんに聞く

「地域に住む者として何かしたかった」

 宮城県石巻市の地域紙である石巻日日新聞は、3.11東日本大震災で停電と津波の被害に遭い、輪転機は水没した。新聞発行が危機を迎えたとき、編集部員は手書きで記事を書き、壁新聞という形で被災者に伝え続けた。国内外から称賛された壁新聞発行の経緯や被災地メディアの現状とこれからについて、武内宏之さん(55)にお話をうかがった。

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 ―壁新聞発行までの経緯を教えてください。

 2011年3月11日の午後2時46分、ちょうど輪転機が止まった直後にものすごい揺れの地震が起きました。津波が来ても膝くらいまでだろうと考えていましたが、時間がたつにつれて3m、6m、10mの津波が押し寄せて、これは大変だとなりました。ドス黒い津波が何度も来ては引いて、それが落ち着いたのはだいたい夜の8時くらいだったと記憶しています。翌日の新聞発行をどうするか協議しているとき、近江社長がこう言いました。「地域がこういう状態のときに自分たちが何もしないということは、自分たちで自分たちの存在を否定することだ」。若いスタッフから「大きな節目の前の年(※石巻日日新聞は2012年が創刊100周年にあたる)に、自分たちの代で新聞を出さなかったという記録を作りたくない」という言葉もありました。今考えるとアドレナリンが出ていたのかもしれません。

3月12日付けの壁新聞(第1号)

3月12日付けの壁新聞(第1号)

 もうひとつ出たのが戦時中のエピソードでした。第二次世界大戦中、新聞は1県1紙とする新聞統制が行われ、宮城県は河北新報さんがその1つになりました。他の新聞は廃刊か統合ということになったのですが、当時の先輩方はそれを拒否して新聞を出し続けたそうです。紙の配給停止で印刷の新聞はストップしたそうですが、その後も家にあったわら半紙に鉛筆で記事を書いて、地域に配ったという伝説があります。夜のミーティングでその話をしたら、社長が「先輩たちのように、ペンと紙さえあれば“伝える”という私たちの仕事はできるじゃないか」と。

 

 

「ジャーナリズムの使命感は頭になかった」

―壁新聞が世界的に評価されたことについてどうお考えですか。

 壁新聞のことをジャーナリズムの使命感とかいう言葉で表現していただくのですが、そういう言葉は頭にありませんでした。自分の家族のことも頭にあり、みんな辛い思いをしていましたが、誰も口に出す人はいませんでした。ただ、地域に住む人間の一人(=ローカリスト)としての思いから、新聞の発行を行いました。

壁新聞の発行について話をする武内宏之さん

壁新聞の発行について話をする武内宏之さん

 壁新聞を評価していただいているという思いはありますが、それに対して特別な感情はありません。私たちにとって、壁新聞も読者が読み終えれば普通の古新聞の1つです。「壁新聞」に足が生えて独り歩きしているような思いもあります。

 ―自らも被災者であったことは新聞づくりに影響しましたか。

 みんな着のみ着のままで避難していますから、自分が住んでいる地域がどうなったかを知らせるという方針を立てて取材をしました。体育館の壁に新聞を張り出すと、人々は食い入るように読んでいました。

 最初は被害の話ばかりを書いていましたが、これでは読む人の心が折れてしまうのではないかという気持ちが出てきました。そこで、3日目からは支援物資の情報・ボランティアの情報など、希望の出る情報を優先して書きました。それが果して良かったのかは今でも分かりません。あのときは被害情報ばかりではダメだと、私自身が思いました。

 ―地域紙と全国紙の違いについて教えてください。

石巻日日新聞社

石巻日日新聞社

 私たちは記者が6人しかいませんし、車もやられました。それに対して大手メディアは何十人何百人と記者を送り込んできます。私たちの知らないことが大手メディアに載るのは悔しかったです。そんな時に視点を変えてみました。大手のメディアは被災地のことを被災地の外に伝えるメディア、地域紙は被災地のことを被災地に伝えるメディアだと。伝達する情報が違って当然だと考え、食料、水、薬など、被災者のための生活情報を中心にしました。

 私たちも被災していますから、毎日被災者の方と接していると身内のような感情を抱いてしまいます。被災した人の気持ちが痛いほどわかるからです。これは後輩の話ですが、相手を傷つけるような取材はできないと思う一方、記者だから話を聞かなければいけないと苦悩したそうです。だからこそ、言葉には特に気をつけて取材をしました。スピードという面では悔しい思いをしていますが、書くことはしっかり書かなければなりません。

「地域に寄り添う報道をつづけたい」

 ―被災地のメディアとしてどのように復興に携わって行かれますか。

 今年は復興元年といわれますが、私たちが取材をしていると、どうもそうではないと思います。家をなくした人、仕事をなくした人、大切な人をなくした人が大勢います。そこから1年や2年では立ち直れません。復興は人それぞれです。

 今回の経験を通じて、改めて地域紙はどういう存在か考えさせられました。そこに住む人たちの生活に役立たなければなりません。奇跡だ、感動だ、という話だけを書いてはいられません。ニーズも変わってきますから、それを見極めて書くことが大切です。これからも地域に寄り添っていきたいです。

 ―ジャーナリストを志望する人たちへ一言お願いします。

地方で仕事をしていて思うのは、ジャーナリズムは今、変革期を迎えているのかなということです。ジャーナリズムは第四の権力、国民のための権力と呼ばれてきましたが、その役割も変わりつつあるのではないかと感じます。旧来の権力が私たちをリードしてくれなくなった今、国民の健全な世論を育てるのがジャーナリズムの仕事ではないでしょうか。今までのジャーナリズムにこだわる必要はありません。これから現場に出る若い人たちには、この変革期の中で新しいジャーナリズムを築き上げてほしいと思います。   

【2012年10月26日取材】

 

 インタビューを終えて  沿岸部などにはまだ生々しい傷跡があるものの、石巻市全般を見たときに思ったのは、「ここまで復興が進んでいるのか」ということだった。しかし、お話をお聞きして、人々の笑顔の裏にはまだまだ癒えない傷があることを知った。「復興は人それぞれ」というお言葉にうなずけた。南海トラフ地震では最大32万人の死者が出ると言われている。震災の記憶を風化させることなく、自分たちの身にもいつか起こり得ることだと心に刻み、備えをしていきたい。(太田啓介)

・石巻日日新聞HP
 http://www.hibishinbun.com/
 ※この記事は、2012年度J-School秋学期授業「ニューズルームB」(担当教員・瀬川至朗)を中心に作成しました。石巻地域メディア取材班のメンバーは、太田啓介、斉ガンユウ、斉藤明美、段文凝、藤井栄人、藤本伸一郎です。

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