桂直之さん

「石巻の津波の記憶、外に伝えたい」 第12回早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞 三陸河北新報社常務 桂直之さんインタビュー 

 広く社会文化と公共の利益に貢献したジャーナリストに贈られる第12回(2012年度)「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」で、三陸河北新報社『石巻かほく』の連載企画「私の3.11」が草の根民主主義部門の奨励賞を受賞した。同社代表である桂直之さんに、被災時の新聞発行の悩みや手応え、「私の3.11」を企画した経緯やこれからの紙面づくりなどについてお話をうかがった。

このエントリーをはてなブックマークに追加
はてなブックマーク - 「石巻の津波の記憶、外に伝えたい」 第12回早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞 三陸河北新報社常務 桂直之さんインタビュー 
Share on Facebook
Bookmark this on Yahoo Bookmark
Bookmark this on Livedoor Clip

——「石巻かほく」はどんな新聞ですか?

 うちの新聞(石巻かほく)は、「河北新報」という東北6県をカバーしている新聞社が石巻地方だけに特化して、石巻地方のニュースを載せましょうということで、河北新報に折り込んで、売っています。1部200円。河北新報を購読してもらえれば、プラス200円で「石巻かほく」を購読できる形です。津波の前までは、普通6ページ、多い時は8ページでしたが、今はまだ日曜日だけが6ページ、あとは4ページという形です。今後、もっと6ページを増やしていこうと思っています。

 石巻の編集部は12人。デスクが2人、実質記者は10人。「私の3.11」の企画は「石巻かほく」編集部と同じところにある河北新報石巻総局の記者も一緒に共同して担当しました。外部ライター含めて15人で書いたということですね。

三陸河北新報社の社屋

三陸河北新報社の社屋

〈三陸河北新報社は1980年(昭和55年)1月28日、河北新報の姉妹会社として設立された。同年4月21日に石巻地域の情報に特化した地域紙「石巻かほく」の第1号を発行。震災以前は4万7000部あった発行部数が、震災直後の4月には3万2200部まで落ち込んだ。2005年4月からは、河北新報気仙沼地域版「リアスの風」の編集制作も行っている。〉

2日間出せなかった新聞

——3.11当日の状況について教えてください。

 地震が14時46分で、津波が15時45分ぐらいでしたけれども、旧北上川から津波が来て、高さが約1メートル60センチぐらいでしたね。会社前の県道では渋滞中の車が押し流され、3段重ねになるものもあった。保存食とかはなく、当日は社外にある自販機の保存用の飲料水は全部出して、避難した人にも分けて、僕らもそれを飲みながら1晩過ごしました。

近くの日和山を越えたところの様子は建物の屋上からも何も見えないのですけど、プロパンガスとかガソリンが燃えて、山越しにその煙が上がっているのが2晩ずっと見えた。危険だから取材に行くなということで、その時は、ビルの中から周りの近くの写真しか撮ることができなかった。

 津波が来た後の16時過ぎから携帯はソフトバンクを除いて駄目でした。一番初めにauがダメで、次にdocomo、次にソフトバンクという形で、一番ソフトバンクが長持ちして、回復も一番早かった。

家族の安否確認を優先して、歩いて帰れる人は帰っていいよと伝えました。帰れないぐらい遠い人はまず、周りの取材をできるかどうかを確かめて取材をする。朝になっても膝ぐらいまでは水が残っていました。夜中に津波は6回きました。 襲っては引いて襲っては引いてみたいな感じで、それが真っ暗で音だけ聞こえるんですね。サァーといって、シュシュシューと。そういう音と余震がたくさんあって、緊急地震速報が鳴りました。やはり、安心できない晩でした。僕も近くのアパートに住んでいて、まあ帰れるのでコンロを持ってきたり、調理器具を持ってきたりした。

——『石巻かほく』が発行を再開するまでの様子をお聞かせ下さい。

 翌日の3月12日からは何かを食べようと努力したということと、自宅に帰れない人は歩ける範囲で写真を撮って、実際どうなっているかを各自出かけて見たということですね。水がないので、社員が山の上を登った先まで水を汲みに行きました。13日には、仙台の河北新報から取材陣が来て、物資も持ってきてくれた。

 その段階まで、記者2人の安否確認ができていなかった。1人は、うちの記者で、女川の議会で津波にあった。もう1人は原発の近くまで行っていて、この2人が一番心配だったんですけど、13日になって、1人は無事帰ってきたと。もう1人は、仙台にまで行き着いて、そこで原稿を書いていた。まあ、2人とも無事だったということで、会社として社員、アルバイトそういう方々は誰1人犠牲にならずにすみました。しかし、家族で亡くなった方が何人かいらっしゃいました。

 要するに、12日付と13日付の新聞は出せませんでした。14日に再開する時も、石巻で紙面を作るということができなかったので、仙台で作ってもらった。仙台のほうで判断して、(再開の)第一報を出しましょうと。第一報はほんと写真だけで、表裏1枚だけの新聞でした。

ジャーナリズムコースの学生に紙面制作について説明をする桂直之さん

ジャーナリズムコースの学生に紙面制作について説明をする桂直之さん

 その時は電話が駄目だし、携帯も駄目なので、基本的に本社から応援にきた人に、写真と原稿をUSBメモリーに入れて車で持って帰ってもらって、それで紙面を組んでもらうことにしました。だいたい15時半には書いてしまわないといけないので、遅い時間の記事はほとんど入らない。1カ月くらい同じ形で続けました。

紙面の3分の2使い、証言を掲載

 ——なぜ連載「私の3.11」を企画されたのですか?

 地域紙として、地域に特化したことを伝えていかなければならない。最大の被災地である石巻で、何を伝えていくのかと言えば、津波の記憶をできるだけたくさんの人から話を聞いていこうと。最初の取材を始めたのが震災2カ月後くらいからで、3カ月後から掲載していきました。

掲載までに色んな意味での葛藤があるし、取材する相手が答えてくれるのかという問題もありました。どういう人を選んで、どういう人から聞けばいいのか。手当たり次第、助かった人から聞けばいいというわけでもないですし。別のところでは話してくれるけれども、いざ取材に行ったら話してくれない人もいて、そういう人も説得しながらですね、最終的には本にして石巻の津波の記憶を残すということで了解を頂いた100人の証言を掲載しました。

本当はもっとやりたいということもありました。1人1人の記事は1650字ぐらい。普通の新聞でいうと、約3分の2が埋まっているわけです。そういう連載は普通はやらないんですけど、やはりそれだけ大変な思いをしたことを簡単に書けるのかということで、普段よりも長い字数を使って、細かく証言を集めることをしてきました。

——今回の受賞をお聞きになってどう感じられましたか。

桂直之さん

桂直之さん

 最大の被災地である石巻から、記録を残していきながら、それを外部に発信して、そのことで少しでも大震災を記憶に、教訓になるようにしてほしいと思っていました。ですから、ここの方に読んでもらうというよりは、よその方に読んでもらいたいという意味で言えば、受賞はその方々に読んでもらう機会を持てたという意味ですごく嬉しいし、その思っていた部分を認めていただいたということで大変嬉しかった。

被災者向け情報に手応えと反省

——3.11の震災報道を振り返って率直な気持ちをお願いします。

 市の情報発信体制はなかなか整いませんでした。3月14日にうちが発行を再開した時は、記者が署名入りの被災体験をルポ風に書き、被害状況の写真を載せて、これだけ被災したんですよということを見てもらう紙面展開しかできなかった。

 宮城県はけっこう地震があるし、宮城沖地震が必ずあると言われてきました。地震に対して、やはりある程度の備えというか、その時新聞は何をするかということを普段から考えてはいました。いかに早くもとの生活に戻すための生活情報、安否確認のことを主体にすれば大体は満足してもらえるのかなと考えていたんですけど、今回のように幅広いエリアで、膨大な人の安否が分からない状況のなかで、ではどうやって安否関連の情報を伝えられるのか。 まず避難所に訪ねて再会するということで、避難所一覧を載せていく。その一方で、少ないけれど、亡くなった方の名前を自治体がだんだん発表してくれるようになった。そこで、亡くなった方の名前を載せていく。

 それから、避難所に来ている人の一覧が発表になりました。それを新聞に載せるのか、載せないのかというのが悩みの一つでした。うちの新聞としては、結局見送りました。そのスペースに他のものを入れた方がいいと判断しました。当時、自分の家族を探して、避難所をどんどん渡り歩いている人もいましたから。名簿自体が本当に正しいのか。そして、膨大な人名を入力する人手がいるというのも含めてですね、結局、そのことではあまり応えてあげることができなかった。読者に言わせれば、本当はそういうものを一番欲しかったのですけれども、なかなか応えることができなかったというのは反省点です。

 一方で、ライフラインの復旧状況や相談窓口とかの細かい情報を載せる。炊き出しなどは一番その時、皆さん何を食べているのかということがあったので、その場所をできるだけ多く知らせることで、少しは役に立ったのかなと思っています。あとは、避難所の名簿を載せられない代わりに、避難所でどういう生活をしているのか、避難所便りですべての避難所をできるだけ取り上げるようにしました。

 3月14日の朝、うちの新聞が復活してから、販売店の前に新聞を貼り出したり、避難所に持っていって、無料で配ったりしました。やはりラジオだけだと聞き逃したりもします。新聞は確認ができるのと、あとは回覧ができるということもあり、けっこう奪い合いになったりしました。 

——今後の展望について教えてください。

 展望としては、今、こういう風になって賞もいただいたわけですけど、むしろ、今だったらしゃべれるという人もいるんです。そういう人たちの続編みたいな企画をやったらいいのか、今悩んでいます。まだまだ語り足りない、引き継いでいかないといけないものもあるんじゃないかと思っています。最初は、「私の3.11」を連載しながら、一方でどんどん英訳をして、抜粋版でもいいから海外にも発信したいというつもりで取り組んできました。今は、そこまでいってないので、努力はしてるんですけれども、将来的にはそういうものを出していけるようにしたいなと思っています。

【 取材・執筆 : 藤本伸一郎  写真 : 段文凝 】

 

インタビューを終えて

 今回は、受賞を受けてのインタビューであったが、地域紙の役割、新聞の役割というものについて改めて深く考えさせられた。東日本大震災では、ソーシャルメディアが特に注目された。しかし、最大の被災地である石巻では、震災当初何の役割も果たすことはできなかった。美談を載せるよりも炊き出しの情報など読者が本当に必要としている情報を優先したという「石巻かほく」。避難所では奪い合いになったというが、これは常日頃から地元の人々と接し、同じ目線で共に歩んできた結果だと感じることができた。(藤本伸一郎)

 

・石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞HP
http://www.waseda.jp/jp/global/guide/award/index.html
・石巻かほくHP
http://ishinomaki.kahoku.co.jp
 
※この記事は、2012年度J-School秋学期授業「ニューズルームB」(担当教員・瀬川至朗)を中心に作成しました。石巻地域メディア取材班のメンバーは、太田啓介、斉ガンユウ、斉藤明美、段文凝、藤井栄人、藤本伸一郎です。

 

合わせて読みたい

  1. 早稲田大学生協「焼き立てパン」の舞台裏
  2. 早稲田最後の洋服店/学生服とともに、90年の盛衰
  3. 早大生に愛された理髪店、45年の幕を閉じる
  4. 学生がカフェ経営 「ぐぅ」な試みで地域貢献
  5. シーサイド大西と豊島の三十年