守り続ける「本物の角帽」

守り続ける「本物の角帽」

戦前、戦後を通して、多くの学生が学生帽をかぶってきた。なかでも、早稲田大学の角帽の形は特殊だ。他の学生帽よりも、頭上の「天井」部分のひし形が大きく角ばっている。創始者の大隈重信が「どんなところでも、早稲田の学生と分かるように」と作らせた。年々、かぶる人は減ってきているが、今も角帽を作り続ける職人と愛用する学生がいる。

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  早稲田の応援部やサークルの人々が、角帽を毎年買いに来るのが、大学正門横にある「水野帽子店」だ。以前は大学周辺に数店あった角帽専門店も、今ではこの店だけとなった。

  店主の水野正雄さん(82)は、手作りにこだわり続ける職人だ。羊毛で作られたラシャの生地と、麻で作った芯を組み合わせて角帽を作る。生地も麻も、昔のような質の良い材料はなかなか集まらなくなってきた。それでも、今まで手がけてきた仕事を「手抜きするなんてできない」と語る。

  先代の父、栄二さんから受け継いだ大正時代の手縫いのミシンは、天井と側面を縫い合わせる時に欠かせないものだ。「少したるみをつけて縫い合わせるんです。すると、全体にふわっとして、前から見たときに格好が良いんですよ」。現在の全自動ミシンでは、このたるみは絶対に出せないという。

  水野帽子店は、戦後間もない時期に神田から早稲田に店舗を移した。焼夷弾による爆撃で、早稲田の街はまだ焼野原だったそうだ。材料が不足するなか、学生が持ち寄った布で、先代は角帽を作った。「学生が持ってきた陣羽織やマントを裁断して帽子にしていました。なかには迷彩服を持ち込んだ学生もいて、奇抜な柄のものも作ったそうです」と、水野さんは笑う。

  1960年代の終わりになると、男性も髪を伸ばすようになり、普通の洋服を着る学生も増えてきた。次第に、学生帽も売れなくなったという。戦後しばらくは毎年数千個作っていたが、最近では年に100個強の生産しかない。水野さんも妻から「体も弱いし、休んでもいいのでは」と言われたことがある。「だけど、この本物の角帽を誰も作ってくれなくなるのは忍びないからね。病気にならない限り続けたいよ」

  「本庄~早稲田100キロハイク」など様々なイベントを行うサークル、早稲田精神昂揚会の第53代幹事長、商学部2年生の石川豊さん(20)=写真中央=は、水野帽子店の角帽を愛用する一人だ。イベントを主催する際には、必ず学ラン・角帽姿だ。「時々、授業にも着ていくんです。周りの人には『どうしたの』と言われてしまいますけど」

  使い込んで、糸がほつれた角帽を持っていった時、水野さんが素早く修理してくれたことに驚いた。「僕らにとっては、先人たちとつながっていると思えるツールが、学ランであり角帽です。今も昔も変わらないですから」と、角帽を手に語った。

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※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームD(朝日新聞提携講座)」(林美子講師)において作成しました。

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