20101028-terashima

野宿者や派遣労働者とともに

「ワーキングプア」「派遣切り」という言葉を多くの人が知る時代になった。もっと前から野宿者や派遣労働者に寄り添い、取材を続ける記者がいる。毎日新聞記者の東海林智さんだ。彼が現場に通い続ける理由は何か。

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  略歴 東海林 智(とうかいりん さとし)1964年山形県生まれ、法政大学卒。現在、毎日新聞社編集局社会部記者。著書に『貧困の現場』がある。2008年12月31日から2009年1月4日に開設した年越し派遣村の実行委員を務めた。

労働問題に興味を持ったきっかけは何ですか。

  中学2年生の時に小林多喜二の『蟹工船』を読んだことです。何が正しくて何が正しくないのかはわからなかったけど、抑圧された言論下で命を懸けて伝えたことは本当のことなんだろうなと思いました。それから本を読む中で、社会や資本主義の矛盾に気づきました。

 

大学時代に山谷の越冬闘争に参加した理由にも関係ありますか。

  そうですね。現場を自分の眼で確かめたいと思って参加し始めました。

 

卒業後の進路として支援者であるNPO等で働くことは考えましたか。

  当時はNPOの概念がようやく日本に定着し始めた頃で、労働問題の活動や支援は組合が基本でした。いきなり組合の活動家として働くことには、その場所しか知らない視野の狭い人間になってしまうのではないかと思い抵抗がありました。広い視野を持つために社会に出て働こう決めました。

 

なぜ新聞記者を目指したのですか。

  一番のきっかけは大学時代に毎日新聞社でアルバイトをしていた時に記者の人を近くで見たことです。一緒に働いていると、頭がよくて小難しそうだと思っていた記者のイメージがいい方に崩れていきました。『あぁこの人たちも普通の人間なんだ』と。自分もなれるのではと思い新聞記者を目指しました。

 

新聞記者になっても自分のテーマを追い続けることは難しいのではと思います。一貫して労働問題を取材することが出来たのですか。

  ずっと労働問題の取材を出来ていたわけではありません。社会部の警視庁担当だった時は全く取材出来ませんでした。組織の中では問題意識を持ち続けることと記事を書くことは別個です。自分のテーマを取材して記事が書けるようになるためには必要な修行だと思って、日々の仕事に取り組んでいました。仕事をこなしていかないと社内で評価してもらえませんから。本当に興味のあることは熱心に取材ができて良い記事が書けるようになっていくはずです。そうするとまた良い評価につなががっていきます。

 

労働問題を取材する中で一番印象に残っていることは何ですか。

  1999年から2年半大阪の釜ヶ崎を中心に取材をしました。その時に知り合いになった野宿者のおじさんの葬式が忘れられません。彼は3年間野宿生活をした後に、生活保護を申請してアパートで居宅保護されることになったんです。しかしそれから3、4ヶ月後に亡くなりました。内蔵がボロボロの状態だったらしいです。地域センターの一室で行われた葬式の参列者は誰も喪服なんてもっていなくて。島倉千代子の「鳳仙花」が最後に流れる中で、一人また一人と拳を空に突き上げていったんです。悲しみではなく「なんでこうなってしまったんだ」というぶつけようのない怒りで拳が震えていました。この光景が眼に焼き付いています。この光景を見たからには、労働問題からもう逃げられないと思いました。

 

—著書『貧困の現場』を読んで取材相手との距離が近いという印象を持ちました。辛くなることはないですか。

  辛くなることはありますが、それはジャーナリストが引き受けるべきもので忘れてはいけないことです。辛い時は涙を我慢しないで取材相手と一緒に泣いた方が辛くならないと思っています。涙はシンパシーの表明ですから。しかし同時に忘れていくことも大切です。冷たい人間の様に聞こえますが、人間として自然なことです。日々記者として膨大な情報量の中で仕事をする上では、忘れていかないと体が耐えられなくなってしまいます。寝る前に思い出して寝られなくなってしまうこともあります。忘れないことと忘れることのバランスを上手く取らなくてはいけません。

 

—年越し派遣村の実行委員を務めたのにはどういった経緯があったのですか。

  中立的で客観的な報道するのは記者にとって大事なことですが、伝えることしかできないことに耐えられなくなりました。取材相手一人を救わなくていいのかと。その思いがあって村長を務めた湯浅誠さんをはじめとした多くの人と協力して年越し派遣村を開設することになりました。目の前の一人を救いたいという思いから活動に参加して、人が今まで見て見ぬふりをしてきた労働問題の中で同じ人間が生きていることを伝えようとしました。マスコミの報道で、問題を可視化することは成功したと思っています。

 

可視化したとはいえ、現在も野宿者やワーキングプアで苦しんでいる人がいます。可視化しても問題が解決したわけではないことをどう考えていますか。

  問題はすぐに解決するわけではないです。変わることもあるが変わらないことだってあります。しかしそこで諦めて伝えるのをやめてしまうとそこで生きていた人たちがいなかったことにされてしまうのです。なかったことにされないために伝えることがジャーナリズムの仕事だと思っています。

 

取材を終えて
著書『貧困の現場』を読みながら、気付けば何度も泣いていた。「一体どんな人が書いたのだろう」という好奇心からインタビューを企画した。
実際に会うと「文は人なり」という言葉があるがこんなにも当てはまる人がいるのかと思った。東海林さんの言葉を聞きながら、何度か目頭が熱くなった。
「なかったことにされないために伝える」。この言葉を私は一生忘れない。

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※この記事は、2010年度J-Schoolの授業「ニューズルームE」において作成しました。

 

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