久保田~1

無言の父と靖国神社での再会

靖国神社。それは幼くして父と別れた杉本とめ子さんにとって、父と会える唯一の場所であった。戦中、戦後の激動を生き抜いた杉本さんは、父と「再会」を果たし、こう漏らした。「よく生きてこられた」と。

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 突如引き裂かれた父娘

  4月下旬のある日、地下鉄九段下の駅から靖国神社へ向かう途中。降っていた雨が突然止んだ。「お父さんが『よく来てくれたなぁ』って言っているのかな」。杉本とめ子さん(83)は、そうつぶやいた。靖国神社への参拝という70年来の念願が、この日ようやくかなったのだった。

  杉本さんは昭和13(1938)年7月7日、愛知県の陸軍豊橋部隊に招集される父を、静岡県の御殿場駅で見送った。小学6年生だった。紋付袴姿の父に「一人で行ける?」と聞いたのを覚えている。「行けるよ」と父は答えた。

  父は再婚し別の家族を持っていたため、杉本さんは祖母との二人暮らしだった。出兵の前日、祖母に連れられて父の家に泊まった。翌朝目を覚ますと、別の部屋で寝ていたはずの父が、杉本さんの隣に寄り添って寝ていた。

  少年兵の訓練役として出兵するので、戦地には行かないはずだった。ところが日中戦争の最中、父から「中国に騎兵として渡る」との手紙が届いた。投函されたのは、戦地に向かう船からだった。それから間もない昭和14(1939)年1月15日、連隊長を助けに行く途中、父は銃弾に倒れて帰らぬ人となる。彼女のもとに届いたのは、血に染まったももひきの一部と、腕時計のベルトの革、ぼろぼろになった手帳だけだった。

たった独りで生きぬく戦中

  父親を失い、育ててくれた祖母も病気で亡くした杉本さんは、昭和18(1943)年に上京し、共立女子専門学校(現共立女子大学)の売店や縫製の事業を営む一家に仕える。朝は屋敷の拭き掃除から始まり、都電で職場へ通い売店を切り盛りし、縫製に使用する糸巻きの残業をする。夜は一家7人分の靴磨きを終えて銭湯に通う毎日。

  共に上京してきた仲間は、あまりの辛さに郷里に帰ってしまったという。しかし彼女には、帰る家がなかった。都電で靖国神社の前を通るたび、杉本さんは亡き父に頭を下げた。寄り道をして帰ることすら出来なかった。そんな時代だった。

  昭和20(1945)年には、3月の東京大空襲も経験した。炎に包まれる町中を、布団をかぶって逃げた。その後も東京は何度も空襲の被害に遭った。足の踏み場もない程地面に突き刺さった焼夷弾や、偵察にきたB-29が空に残す、細い白い雲を今でも覚えている。

靖国へ 小学生以来の「再会」

  終戦直後の昭和20(1945)年の秋、国鉄職員だった男性と結婚した。静岡県裾野市で6人の子育てに追われる毎日。忙しさの中で、靖国神社参拝を果たせずにいた。父の戦死後、まだ小学生だった時に、戦没者の慰霊祭で一度だけ靖国を訪れたことがある。夜の神社にかがり火がたかれ、おごそかな雰囲気だった。その風景を思い出しては、靖国参拝への思いを募らせていた。

  首相の公式参拝や、中国や韓国との関係をめぐり、しばしば論争の的になる靖国神社。しかし、杉本さんにとっては父に「再会」することのできる唯一の場所だ。そんな杉本さんの思いを知る孫に付き添われて、83歳でやっと靖国神社に足を運ぶことができた。

「よく生きてこられた」
それまで漏らしたことのなかった言葉が、口をついて出た。

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※この記事は、10年度J-School授業「ニューズルームD(朝日新聞提携講座)」(林美子講師)において作成しました。

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