筑紫哲也氏追悼シンポジウム(6): メディアの公共性―「放送人の役割」と「生存視聴率」

公共性とは、本当に多数者のことなのか。NHKと民放、それぞれの立場から議論が行われた。   「放送人の役割」を考える 田原 道傳さん。NHKは、視聴率やスポンサーを気にしなくていい。今後、どうなりますか? 道傳…

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公共性とは、本当に多数者のことなのか。NHKと民放、それぞれの立場から議論が行われた。

 

「放送人の役割」を考える

田原 道傳さん。NHKは、視聴率やスポンサーを気にしなくていい。今後、どうなりますか?

0906-toden3.jpg道傳 今こそテレビとは何かを真剣に考えるべき時代であると感じています。民放とNHK、みんな含めて、切磋琢磨を始めていかなくてはならない時だと思います。

田原 民放はみんな落ちていますが、NHKだけは減っていません。今こそ頑張ってほしいのです。

道傳 これからテレビ局が淘汰されていくことは、きっとあると思います。
 NHKには収益減はないと思われるかも知れませんが、これは皆様が払ってくださる受信料に支えられているからの話です。ですから、新年度から環境特集番組も始まりますし、国内だけではなく国際放送も本格化しますが、これはNHK全体が社会の公共性を常に意識した放送をしなければならないからだと思います。
 お笑い、バラエティ、ニュースなど全部含めて、メディアの総体として「放送人の役割」を考えておかなければと思います。

 

 

「公共=マジョリティ」?

0906-kang3.jpg 公共性に関する話ですが、10数年前、仙台市で新聞労連の大会があったときに、「書いている側が、読者が多すぎて誰が読者なのかという平均像がわからない」という、面白い発表がありました。
 例えば、税金の確定申告の記事で、Aさん、Bさんと言う呼称が出てきますが、これは800万人の読者がいるからです。結局、平均的なあたり障りのないところに落ち着く。
 現場のジャーナリストが、読者という具体的な像を見ることができないのです。だから、読者、視聴者もメディアに対する信頼度が落ちるのではないかと思います。

 

 「公共=マジョリティ」という等式が成り立ってきたから、結局平均値に合わせてしまうんでしょうかね。公共性とは、本当に多数者のことなのでしょうか。
 イラク戦争が始まったときにテレビで、田原さんに、番組大量破壊兵器が「ある」と「ない」どちらかと聞かれました。そのとき、「ある」と答えるのは楽。しかし、「ない」と答えるには説明に何十倍も時間がかかり、それゆえ劣勢に立たされる。
 そうすると、「ある」と答える方が楽で、これが多数者になるわけです。多数者になるとこれが公共性であると思うようになります。

 私は、公共性は多数者ではないと思います。多数者でも間違える時があるわけですから、これをジャーナリズムとアカデミズムがどう指摘できるかが重要だと思います。

 

 

 少数派になることを恐れない 

田原 筑紫さんは、「視聴率は気にしすぎてはいけないが、番組が生き残るための『生存視聴率』はある。それが7%だ」と言いました。  金平さんがデスクをしていたとき、視聴者のターゲットはどう設定していました?

金平 「公共性=多数派」ではないということは、まさに最後の多事争論で筑紫さんが言っていたことです。自分たちが少数派になることを恐れないんだと。少数派が困っている社会は独裁制と同じです。
 それで、自分たちを徹底的にマイノリティ、つまり少数派の立場から見ようとしました。逆さまでしたね。しかし、その結果として、多数派の注意を引くことになりました。そもそも多数派というのは、自分たちのことしか見えないのですから、気づかないものを見せることはとても大事なことだと思う。

 

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