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石垣島で台湾を追い続ける記者 松田良孝さん ―地元出身では見えないものを書く

日本最南端の新聞社・八重山毎日新聞の松田良孝記者(41)は、戦前から密接な関係が続く八重山諸島と台湾を取材している。戦時中の台湾疎開を取材した著作は今年、第14回新聞労連ジャーナリスト大賞を受賞した。石垣島にある同社内では唯一の本土出身記者。地元出身者にはない独自の視点で八重山を見つめる。

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「変わり者」と呼ばれて

  松田良孝さんには、毎年の旧盆に決まって訪ねる家がある。石垣市平得に住む台湾人曽根財基さんのお宅だ。精霊送りの日の夜、曽根さんの家では家族総出であの世から帰ってきた精霊をもてなし、人間界から送り出すための儀式をする。台湾の長い線香をたき、三日月形の神具ポエを使って精霊が満足したかを尋ねる。台湾の伝統的な方法だ。ただし、盆の日数は違う。台湾のお盆は1日だが、曽根家のお盆は八重山の一般家庭と同じように3日。台湾と八重山のスタイルを織り交ぜたお盆を見るのが楽しみになっている。

曽根さんの家の写真 撮影:村井七緒子

  本土にいると分からないが、八重山と台湾は長年、密接に関わりあってきた。台湾が日本の植民地だった1895年から1945年、台湾と八重山の間にはまだ国境がなく、自由に行き来できた。台湾人は、西表島の炭鉱や石垣島でのパイン産業振興を目指し八重山へ移り住んだ。一方、戦時中は八重山からおよそ2500~3000人もの日本人が台湾へ疎開した。しかし、その実態はほとんど調査されたことがなかった。

  松田さんは、こうした八重山と台湾の関わりにこだわって取材をしてきた。その軌跡を新聞連載や本として執筆した。著作は、沖縄タイムス出版文化賞、新聞労連ジャーナリスト大賞を受賞した。

  そんな彼を、人は時に「変わり者」と呼ぶ。

  生まれは埼玉県。大学時代から、「八重山で将来はやっていこう」と決めていた。灰谷健次郎の『太陽の子』がきっかけだった。主人公の父親は八重山・波照間島出身。沖縄戦で心を病んだ姿が描かれる。物語の中では、直接病の原因は語られない。彼の心はなぜ病んでしまったのか。その答えを確かめたいという確固たる目的があったわけでもなかったが、波照間島に行き、とにかくその場所に立ってみたかった。大学卒業後、一旦北海道の十勝毎日新聞に入ったものの、決意は変わらず、北海道から日本列島を縦断し、最南端の八重山毎日新聞にやってきた。

 

「よそ者」という壁

  日々のニュースだけでは満足できない性分だ。ニュースに登場する人物の人となり、背景をじっくり知りたいという思いにかられてしまう。デスクの黒島安隆さんは、「台湾に興味を持てば、自費で5回も6回も台湾に通っていた。あれはもう研究者だ」と話す。

  もともと、調査報道に興味をもち記者を志した。おかしいと思ったことをとことんつきつめることに魅力を感じた。一発ものの記事は、誰が書いても同じような内容になるが、調査報道には書き手がにじみ出る。

  新聞連載をもとに著書『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』を執筆したのも、4カ月間の連載ではどこか満ち足りない思いがあったからだ。連載は読む人の感情に訴える「表現」に注力しがちで、疎開の背景を語る資料や文書が不足していた。データという裏づけを加えてもう一度まとめて直してみようと、4年の歳月をかけて書き上げた。

撮影:内山日花李

 かつて、「変わり者」は「よそ者」という意味でもあったかもしれない。入社当初は、社内や島の習慣になじめないこともあった。デスクの黒島さんは、当時の松田さんをこう語る。「最初は、地元の人にとって重要な出来事なのに、10行ぐらいの短い記事しか書いてこなかったので、怒ったことがある。地元出身記者なら20行ぐらい書ける。地元の人と価値観が違った」。

  今も戸惑うのは、島の方言である。八重山では「ひざまずく」を「正座する」という意味で使う。一般的に、地面や床に膝をついて身をかがめた状態を指す「ひざまずく」と、足を崩さず背筋を伸ばした姿勢をとる「正座」とはだいぶ意味が異なる。「ひざまずく」のように、一般的な意味と方言で使われる場合の意味と2通りあるまぎらわしい言葉は、極力記事では使わないようにしているという。

 

台湾を取材し八重山を知る

  慣れない土地に戸惑いながらも、松田さんは、八重山で生きる台湾人の存在を知り、台湾というテーマを見つけた。日本最西端の与那国島で台湾の密貿易などを取材し、台湾と八重山の関わりの深さに興味を持った。

  たとえば、八重山のシンボルであるパイン産業や水牛は、もともと台湾人が持ち込んできたものだ。パインも水牛も現在の八重山にとっては欠かせない観光資源だ。「台湾を知らなければ、八重山を知ることはできない」と松田さんは話す。

松田良孝さん提供写真

  本土出身の松田さんだからこそ書けるテーマでもある。地元出身者は台湾に関する取材はしづらい。記者の周囲で台湾人を差別していた経験がある者がいると、事実を抑制して書く可能性がある。そもそも、地元にとって台湾人の存在はごく当たり前のものだ。新鮮みを感じにくく、取り立てて書く気にはなれない。

  「俺はラッキーだったと思う。こんな所にこんなおもしろい世界があったなんて」。松田さんは、八重山の内と外を行き来し、八重山をより深く知ろうとしている。八重山の社会や文化は、台湾人をはじめとする沖縄や本土、宮古島など出身地を異にする人々が共生しながら作り上げた歴史がある。古くから移住してきた人々の多様性によって、現在の八重山が形成されてきた。八重山だけを見つめていても八重山を知ることはできない。「変わり者」だからこそ、「よそ者」だからこそ見える世界を、彼は伝え続ける。

 

リンク :日本最南端の新聞社:八重山毎日新聞オンライン

http://www.y-mainichi.co.jp/

※この記事は、八重山毎日新聞のインターンシップで取り組んだ取材をもとに作成しました。

 

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