筑紫哲也氏追悼シンポジウム(2): 筑紫さんと私―野村彰男氏/田勢康弘氏

 パネリストの野村彰夫さん、田勢康弘さんに、それぞれの筑紫さんとの出会い、かかわり、思い出話をうかがった。 野村彰男さんにとっての筑紫哲也   田原 朝日新聞のジャーナリスト学校長、野村彰男さんに筑紫さんはどう…

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 パネリストの野村彰夫さん、田勢康弘さんに、それぞれの筑紫さんとの出会い、かかわり、思い出話をうかがった。

野村彰男さんにとっての筑紫哲也

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田原 朝日新聞のジャーナリスト学校長、野村彰男さんに筑紫さんはどういう人だったか、伺いたいと思います。

 

野村 筑紫さんは、朝日新聞では私の8年先輩です。政治部でも先輩でしたが、私が77年に政治記者になった時、筑紫さんは沖縄特派員をされていました。筑紫さんと初めてお会いしたのは、彼が沖縄の特派員生活を終えて帰ってきた時で、私が佐藤栄作首相の番記者をしている時でした。それから39年が経つわけですが、出会った時から亡くなるちょっと前まで、筑紫さんの私たちと話し合いする態度や姿勢が全く変わっていないことが本当に印象的ですね。

 

 後輩に対しても非常に優しい、ざっくばらんな先輩という印象でした。「1年上の先輩でも、言われたことはハイと聞く」という政治部の雰囲気の中で、筑紫さんは、「ひたすら夜討ち朝駆けしろ」ではなく「いい本読めよ」「いい映画見ろよ」と言う、他の先輩とは違うことを言ってくれる先輩でした。

 ご自身でも、「組織の中には納まりきれない人間だ、政治記者としてはアウトサイダーだ」と言っておられますが、政治記者にありがちな「当事者として派閥取材などにのめりこんで、それを本当に生きがいにしてしまう」というステレオタイプとは違う政治記者でした。

 

 筑紫さんはいつも、少しモノを客観的に見ていたのでしょう。「ジャーナリストは永遠の大学院生である」という言葉が好きで、よく言っていたのを覚えています。これは、記者は結局当事者ではないし、自分の接するものから常に学ぶ姿勢が重要である、ということだと思います。

 

 筑紫さんはその後、沖縄、ウォーターゲート、編集長、テレビの世界と、自分の入った世界でどんどん分野を広げていきました。最後はテレビの人間として名を馳せたわけですが、「書き続ける」ことにも非常にこだわっていた人だと思います。筑紫さんに何回か手紙を出した時に「やっぱり筑紫さんは新聞記者ですね」と言ったことがありますが、一つの枠に収まりきらないジャーナリストでした。

 

野村彰男さんがみた筑紫哲也と政治報道

田原 先ほどアウトサイダーと仰っていましたが、筑紫さんは朝日新聞の中ではどういう人物でしたか。

 

野村 当時の政治部長には、「必ずしも<派閥取材>に日夜はげむ記者ではない」という見方をされていたのかもしれません。筑紫さんは政治部を去る時、当時の政治報道のあり方、政治部のあり方を厳しく批判しました。日本の新聞における政治報道のあり方や記事の書き方に違和感があると。

 

田原 どんな違和感でしょうか?

 

野村 いまは変わってきていますが、当時の政治記者は、派閥の対立や人と人との駆け引きなど、国民生活とは直接関わりないところに多くのエネルギーを使っていました。それを報道することによって日本の政治や政策がどう変わるのか、国民生活にはどのように関わるのか、と言った問題は二の次三の次というような報道、言ってみれば永田町業界紙的な報道が、ある時期までずっとなされてきたのです。
 筑紫さんは、おそらく沖縄取材などをしている時に、そういう政治報道への冷めた思いを強くしていたのだと思います。


野村彰男(のむら・あきお)
朝日新聞ジャーナリスト学校長。1943年静岡県生まれ。国際基督教大学卒。
朝日新聞入社、政治部、ワシントン特派員、論説委員、アメリカ総局長、論説副主幹、朝日新聞総合研究センター所長を経て2003年国連広報センター所長、06年早稲田大学公共経営研究科客員教授(〜08年3月)。08年10月より朝日新聞ジャーナリスト学校長。
共編著に「社会的責任の時代–企業・市民社会・国連のシナジー」「アメリカの戦争とメディア」など。


田勢康弘さんにとっての筑紫哲也

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田原 田勢さんは、筑紫さんが朝日新聞のスター記者であったように、日経新聞の政治部のスターでした。また、筑紫さんが早稲田大学の教授になって、筑紫さんの後を継ぐように教授になりました。田勢さんと筑紫さんは、日経と朝日で同じような立場にあったわけですが、筑紫さんのここが違うという点をお聞きしたいと思います。

 

田勢 初めて「これが筑紫哲也か」とそばで見たのは1972年。筑紫さんがタバコをきらし探している時に、私が渡したタバコを一本とって「ありがとう」と受け取った。それが最初の会話でした。今に至るまで一度も名刺交換はありません。私がタバコをやめた時、「君は意思が弱いんだね」と言われました(笑い)。

 

 「ニュース23」でゲストとして一番多く出たのは私だったと聞いています。そんなにじっくりと付き合いをしたという記憶はありません。ただ、考えてみると、非常によく似た感じの部分があるのです。東京の人間ではないのに途中から都立高校に入って、早稲田の政経を出て新聞記者になった。お互いに政治記者がなんとなく馴染まなかった。私は筑紫さんよりはるかに政治記者になじんでいたと思いますけれど。

 

 そしてアメリカの特派員になったこと、音楽が好きだったこと。何よりも一番似ているな、と思うのは会社の中で浮いていたことです。筑紫さんが亡くなられた時に、朝日新聞からコメントを求められて、「朝日新聞がもう少しこの人を大事にしていれば」というようなことを言ったんですね。「しかし、大事にしていれば、あのような筑紫哲也はいなかっただろう」と。「どうせこれは書けないでしょう」と言ったら、案の定、その部分はカットされていました。

 

田原 朝日って、そんなにつまらない新聞なの。

 

田勢 いや・・・(苦笑い)

 

(会場 笑い)

 

「ものすごく格好のいい人でしたね。生き方そのものも」

田勢 私が政治記者として駆け出しの頃、総理官邸の記者クラブで背中合わせの後ろが、朝日新聞の席だったんです。そこには政治記者としての筑紫哲也というのはいませんでした。あんまり原稿を書いているのは見たことなかったですね。

 何よりも、あぁ、この人は、権力があまり好きじゃないんだなぁ、という感じでした。ですから、派閥の色をまる出しにしたようなドロドロした記事を彼が書いているところは見たこともありませんし、そのような話をしたこともありませんでした。

 

 それから年数が経って、ある時、筑紫さんから電話がかかってきたんです。後にも先にも筑紫さんから電話をもらったのはこれが初めてです。3年前(2006年)の1月4日でした。「今から自分が言うことをよく聞いて、できればNOと言わないでくれ」と言うのです。何かと思ったら「実は自分は早稲田大学を定年なので辞める。NOと言わずに、その後をそのまま引き受けてくれ、YESと言ってくれ」という話なんです。これはまぁ、断るわけにもいかんだろうというので、今日、私はまったく思いも寄らなかった、大学の教壇に立つというようなことをやっているんです。

 

 しかし、やっぱり筑紫さんの後を継いでみて「あぁ、この人と競争してもどうにもならんな」と思いました。本当に、知名度といい、人気といい、かなわない。しかも、この人の場合、私も相当長い付き合いですけれども、怒った顔を見たことがない。それに具体的なアドバイスも私はされたことがないです。
 たった一つ、戒めのようにして言われたのは、私が演歌や歌謡曲の世界にかなりどっぷりと入っているものですから、筑紫さんに「それは君がやるべき仕事じゃないんじゃないか」と。

 

(他パネリスト 笑い)

 

田勢 しかしご本人はそう言いながら、実は石川さゆりが大好きだったんですね。

 

(会場 笑い)

 

田勢 今、研究室に彼の写真を飾っていますけれども、目の前からいなくなったっていう感じが全然しないんです。

 最初に会った時から、ものすごく格好のいい人でしたね。容姿だけではなく発言することも、あるいは生き方そのものも、やたら格好いい。ただ、ジャーナリストとして、本当は政治があんまり好きじゃなかったんだろうと思います。「ニュース23」でも、政治の微妙な話になると、我々のような外部の人間を呼んで喋らせておいて、ご自分は最後に「多事争論」で一言感想を述べる。

(会場 笑い)

 

田勢 ドロドロした政治の世界より、詩人とか映画監督とか、作曲家とか、そういう仕事が本当は一番向いていたのかもしれませんね。だからこそ彼の存在感があったのかなぁ、という感じもしますけれども。


田勢康弘(たせ・やすひろ)
早稲田大学教授。日経新聞客員コラムニスト。1944年中国・黒龍江省生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。
日経新聞入社後、大阪本社社会部、東京本社政治部、ワシントン特派員・支局長、同社コラムニストなどを歴任。2006年から早稲田大学公共経営研究科教授。政治学研究科ジャーナリズムコースの「ニューズルーム」授業を担当。「田勢康弘の週刊ニュース新書」(テレビ東京)に出演。著書に「政治ジャーナリズムの罪と罰」など。


 

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