筑紫哲也氏追悼シンポジウム(3): 日本の政治報道が抱える諸問題

「日本の政治報道はレベルが低い」、と金平さんは指摘する。日本の政治報道のレベルは本当に低いのか。またそのレベルの低さとは一体、何に起因すると考えられているのだろうか。 日本の政治報道はレベルが低い 田原 金平さん、筑紫さ…

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「日本の政治報道はレベルが低い」、と金平さんは指摘する。日本の政治報道のレベルは本当に低いのか。またそのレベルの低さとは一体、何に起因すると考えられているのだろうか。

日本の政治報道はレベルが低い

田原 金平さん、筑紫さんは何を目指して、何と闘っていたのだと思いますか?

 

金平 今までのお話しを聞いて、なるほどと思ったのは、筑紫さんは記者をやっていながら、やはり日本の政治報道のあり方について嫌なモノを感じていたんじゃないかな、ということですね。

 僕自身も政界報道や永田町の報道といった、つまり「権力闘争みたいなものを描くことが政治報道だ」という考え方は、レベルが低いと思いますね。僕自身は政治部という所にいたことがないものですから、なおさら日本の政治報道の質の低さを感じるんですけど。

 で、恐らく筑紫さんもそういうことを感じていたんじゃないかなぁ、と。つまり、メディアというのは権力とかそういうもののあり方の醜さをチェックする役割、いわゆるウォッチ・ドッグ(番犬)という役割をきちんと担うべきだ、と身に沁みて感じます。

 

田原 なるほど。マスコミは、権力の醜さをもっとドンドンドンドン報道すべきだ、と。

 

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金平 そう思いますね。

 

田原 ところが、マスコミは政治家の駆け引きや、今の対立の裏側がどうか、ということに好奇心丸出しで報道している。これはレベルが低すぎる、ということですね。

 

金平 だって、政治っていうのは、永田町の人間関係と全く関係ないですもん。

 

田原 はい。そこで野村さんに聞きたいんですが、今の政治報道はレベルが低すぎる、と。どう思いますか。

 

野村 いや、でも金平さんが居られるアメリカだって、権力闘争は報道するわけですけれどね。でも、その報道される主体は、それによって国がどう変わるか、とか。例えばオバマとマケインとの対立があれば、それによって、政治がどう変わるか、というのが関心事なわけですよね。

 ただ、私は日本だって、政治報道におけるウェイトの置き方はこの10年、15年で、随分それ以前と今では変わってきているとは思うんですね。今、派閥取材、派閥の駆け引きなどで紙面を全部費やす、というようなことはなくなっているわけです。

 けれども、少なくとも私や筑紫さんが政治部にいた70年代なんかは、派閥取材こそが新聞記者、政治記者が最大限のエネルギーを費やす対象だったんですよね。そして、それをやっていると、「自分は仕事をしている」という充足感を得られたわけです。

 私なんかはそのことにあまり迷うことなく、ずっと一生懸命に何年か政治記者をやっていたんです。私も筑紫さんの3代あとのワシントン特派員として米国へ出た頃から、少し日本の政治報道というものに対して客観視できるようになったんですけど、それまでは夢中でやっていました。日々、朝回り、夜回りをすることで、「自分は新聞記者の仕事をやっているんだ」という風に思っていました。

 ただ、筑紫さんのあり方、それから、筑紫さんが政治部から決然と出て行く−まあ、出て行くと言うより出されたわけですけど−その時に最後に批判したことなどを見て、やっぱり政治報道のあり方とは、派閥とか政治家の心の襞に食い込むといったこととは関係ないのかな、という疑問が私にも湧いた、ということでしょうか。

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目標は塩鮭を食べること

田原 野村さんは、そういうことをしていないと思いますが、ちょっと古い時代の話になります。
 田中角栄さんと福田赳夫さんが闘っていた頃。その頃、朝日を含め、あらゆる新聞記者たちが一番の目標としていたことは、二人と「塩鮭を食べること」だったんです。実は田中角栄も福田赳夫も、昼間、仕事を終えると、料亭をはしごするんですよね。そして二人とも料亭をはしごした後、家にかえって必ずお茶漬けで塩鮭を食べるんです。 その塩鮭を一緒に食べられる新聞記者が一番、この二人に食い込んでいる記者なんです。名前を出してもいいんだけど、名前は出しません。
 その次に、ちょっと食い込みが足りない記者は、塩鮭を食べている田中角栄や、福田赳夫を見ながら、応接間でワインを飲んでいた。さらに食い込みが足りない記者は玄関にいる、と。 で、野村さんはどの辺にいたんですか?(会場 笑)

 

野村 私は残念ながら大平派担当だったので角福戦争などは、やや脇から眺めていた、という程度ですね。(笑い)

 

田原 大平派は公家政治だ。何にも政治なんかできないんだ。こういう風に言われていましたよね。

 

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野村 まぁ、でも、最近の字の読めない総理大臣なんかを見ていますとね、大平さんや宮沢さんなど私が担当した派閥の領袖は非常に知性豊かでしたよ。大平さんは非常に読書が好きですね。

 

田原 (読書を)やってた。宮沢さんもやってた。

 

野村 ええ。

 

田原 田勢さんはそういう取材はしたんですか?塩鮭を食べたり、応接間にいたり。

 

田勢 私は悪名高い派閥記者の一人だった時期がありますね。私も大平さんが担当でしたけれども、かなり奥の院まで入った一人だと思います。寝室で彼が寝入るのを見届けて帰る、と。そういう時期がありました。(会場 笑い)

 

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政治家との一体化

田原 ただねぇ。金平さんに敢えて聞きたい。
 政治家が、公に新聞記者やテレビの記者なんかに喋っていることは本音ではない。国民に聞かせるための建前にすぎない話だ、本音はそんな所では絶対に喋らない、と言う意見があります。 でも金平さん達は本音を聞くために記者が政治家に張り付く番記者制度は邪道だ、と言っているわけですが。

 

金平 いや、そういうことを言ってるんじゃないですよ(笑)

 

田原 でも飯食うのは邪道だって言うんでしょ。(笑)

 

金平 いやいや、そんなことないですよ。政治家に食い込むということと、政治家と一体化するということは違うから。つまり政治家というのは、権力とか、そういうものを持っているので、そこと自分との距離というものをなくしてしまうことが危険である、と言っているんです。
 例えば、アメリカで言うと、ボブ・ウッドワードというワシントンポスト紙の大記者がいます。彼は悪名高いブッシュ政権の中に入り込んで、いろんなものを取材しました。それに対して、アクセス・ジャーナリストなどと悪口を言う人もいますけど、彼のやった仕事というのは、やはり歴史に残るものだと思うんですよ。
 中に食い込むこと、というのは僕らの本業から言って、当たり前のことです。政治家と一体化することがよくない。しかしマスメディアの人間、特に政治部の人間というのは、政治家と一体化することによって、自分を見失ってしまうことがないだろうか、と考えたから僕は言っているんです。

 

田原 分かった。田勢さん、そこは一言あると思うけれども。

 

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田勢 いやいや。自分を見失っている人は半分以上いると思いますよね。不思議なことに、筑紫さんは三木番だったんですよ。三木武夫さんの派閥だったんですよね。

 

田原 一番ないわ、それは。

 

田勢 ええ。三木番の人たちっていうのは、あまり派閥として「政治は数だ、数は力だ、力は金だ」、という考え方の人たちではなかったので。

 

田原 三木さん、何も言わない人だからね。

 

田勢 だから論説委員になった人は、三木番の人が多いんですね。

 

田原 はぁー。

 

田勢 ええ。議会制民主主義みたいに朝からずーっと政治家の話を聞いているので。やっぱり田中派担当の人たちというのは、それぞれの新聞社やテレビ局で、割に腕力があるエリートが多かったので、その後、電波担当取締役とか、そういうのになっている人が多いんじゃないですかねぇ。

 

田原 利権の部門に行くわけだ。

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政治家との一体化2

田原 姜さん、今の話を聞いて、どうですか。

 

 そうですねぇ。僕は朝日の紙面審議委員の一人になって、政治部、経済部、社会部、それから学芸部、科学部・・・といろいろ話をしていて、やっぱり縦割りだな、という印象がものすごく強かった。

 

田原 縦割りってどういうことですか。

 

政治部から経済部、社会部、というヒエラルキーが出来ているんですね。それから朝日だけではないと思うんですけど、大新聞は往々にして、かなりヒエラルキーがはっきりしているように感じる。そのためか率直に言わせてもらうと他の部署に対する、ある種、無関心、もしくは場合によっては上下関係というものを少し感じる時があるんですね。
 ですから、同じ朝日という風に我々は外側から考えていたんですが、中に入ってみると、必ずしもそうではない。もちろん朝日という共通の地盤はあると思うんですが。ただ、今の政治報道に関する話を聞いて、僕が感じたのは、紙面審議委員になった時に、「自民党戦国史」のような記事ではない記事を書いてもらいたい、とは主張したんですよね。

 

田原 伊藤昌哉みたいな記事はだめだと?

 

 いや、あれは傑作だと思いますよ。

 

田原 僕は伊藤昌哉をとても信頼しているので。伊藤昌哉は「自民党戦国史」を書いたので、大平さんから追放されたんですよ。

 

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 僕が言いたいのは、世論が新聞とか特定の全国TVによって形成されているんだ、という実感があった時代ならば、まだ派閥取材にはリアリティがあったと思うんですけど、今はもう世論が新聞やTVだけで作られるのか、ネット上で作られるのか、非常に分散していますよ。皆が賢くなっているし、情報も発信できる。
 そうすると、物事を見るときには二つやり方があると思うんです。まず一つは、「ひと」で見るやり方。やっぱり日本は司馬遼太郎の小説もそうなんですが、「ひと」のほうが楽しいんですね。面白い。それに対して、”デモクラシー”とか”民主主義”とか”人権”とか、要するに「理念」とか「事柄」を喋ると、途端にみんながひけちゃう。

 

田原 そんなものないからね。

 

 そう、ないから(笑)今までの政治報道は金平さんが言ったように、ミイラ取りがミイラになってしまう部分がかなりあって、政治記者が政治家と一体化しての政治の当事者になっちゃっているわけですね。場合によっては、政治家のメガホンになる。
 もちろん政治家と政治部の記者の間には様々な緊張関係があると思いますが、誰でも毎日会っていれば結局、情が移りますよ。その政治家の恥部やいろんな面を自分が話すと、これは内部告発みたいになる。どんな社会においても組織や企業における内部告発は非常に難しいと思うんです。そういう一体感を敢えて切って、でも間違っていることについては違うと言う。それは「ひと」ではなくて「事柄」について。
 たとえば日本の国の基軸はどうしたらいいのか。日本で絶対的貧困や派遣の問題が起きているならば、これは日本の豊かさをどうしたらいいのかという本来の政治の問題に話をもう少し移していければいいんです。でも「この人が派閥の中で総理大臣になるのか、ならないのか」という報道になってしまう。
 こういう問題に関連して私がよく聞く話は、「飲み屋で、番記者同士で話していたら、担当派閥に分かれてお互いにケンカした」っていう話を聞くんですが、これ本当でしょうか。

 

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政治報道の本道

田原 なるほど。まあ、今の話はともかくとして道傳さんにちょっとお聞きしたいんですが、よくNHKは政治に弱いと。どうも政治家の圧力がかかって本当のことを放送できないと。たとえば昔、朝日新聞が書いたんだけど、NHKが作った番組を自民党の安倍普三さんと、中川さんが恫喝をして、変えたと。そういう圧力というのは、あるんですか。

 

道傳 それは今日の趣旨とは違うんじゃないでしょうか。

 

田原 いや、まさにそれが趣旨ですよ!

 

道傳 私は詳細をこういう場で申し上げる立場にはありません。

 

田原 そういうこと言うのがNHKの問題点ですよ。

 

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道傳 ちょっとその代わりに申し上げたいことが何点かあります。一つは今のお話をうかがっていて、日本のメディアの特性として、ジャーナリストであることと、サラリーマンつまり組織の人間であることが並立するときと、そこに相いれない部分があるということです。そういう葛藤をそれぞれの記者、ディレクターは感じながら取材をしているんじゃないかなと思いました。
 ですから姜さんがさきほどおっしゃったように、他社を含めて若い記者が「ウチの先生がさ」などと言った時に、ウチの先生って誰のことかなと思っていると、番記者として担当している政治家のことを言っていると。だから、そういうような構造は確かにあり、それを嫌うという意見が生まれるのではないかと思います。
 今でも、若い記者たちは「夜討ち・朝駆け」みたいなことをやります。私自身は政治部におりませんでしたが、東南アジアのバンコクでそれに似たような取材の仕方をしていました。すると、面白いように情報が取れてしまうのです。これは日本の記者の特性ではあるのかなと思うんですが、そこをどういう風に言っても始まらないところもあります。そうであれば、現場の記者の取材がある一方で、たとえば新聞の論説だったり、あるいは田原さんのような立場にある方だったりと、そういう人たちが広くジャーナリズムを総体として作り上げていくという、そういう現場との役割分担みたいなものを考えるべきではないかなと思いました。

 

田原 あの、野村さん。僕は「夜討ち・朝駆け」は絶対必要だと思ってます。今の記者はそれらをやらなさすぎる。
 それから今の記者が劣化したのは携帯電話のせいですよ。携帯で政治家に電話して、どう?って聞いて、それを取材したという話もあります。一方で政治家は「携帯の取材だからいい加減に答えた」、と言う。朝日新聞のジャーナリズム学校では、そういう取材はダメだと教えているんでしょうね?

 

野村 いや私は本当に、政治記者の取材がいけないとは思わないんですね。ちゃんと食いこんで政治家から本音を引き出すという取材がないとダメです。
 今総理大臣は、毎日TVに数分間出てきて喋るわけですね。だからそれが本音だと、あるいはこれが今の日本の政治の争点であり、大事な部分だという形で毎日毎日発信することもできる。だけど総理大臣がそこで話すことは真実なのか?

 

田原 そんなわけないですね。

 

野村 それを取材するのが、政治部の記者でしょう。ジャーナリストであったら本音を引き出すためにいろんなところを取材して、そのTVの表面で総理大臣あるいは閣僚が語る言葉の裏を取ることは本当に大事なことだと思う。これは今のような時代だから、ますます大事だと思うし、それが政治記事、政治報道の本道であるべきだと思うんですね。

 

田原 さっき道傳さんに言ったことは言葉がきつすぎたかもしれませんが、私はNHKに期待していることがあるんです。それはNHKはスタッフが大勢いる、時間をかけられる。だから一つはね、麻生さんが何か言った場合に、建前や嘘だって含まれるわけだから、その裏を取る。取って欲しい。
 でもう一つ。民放には絶対出来なくて、NHKにできることがある。たとえばトヨタが派遣工3000人の首を切ったと。ところが、トヨタの持っている内部留保は今とっても高いという場合。
 すると、「それはどうなんだ」と批判的に報道することは、民放は絶対取材できない。特に日経新聞は絶対に取材できない。それでもNHKにはできるんですよ。こういうことをどんどんやってほしい。どう?

 

道傳 現場に伝えておきます。

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記者会見の意義

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田原 今、政治部の記者がだらけてる、だらけてると言う話が出ています。だけどさっきも出た様に、辞任会見で、何で福田さんが辞めたのかを聞かないかというと、それはみんなが知っているから聞かないのであって。
 私はあの会見後すぐに、福田さんが辞めたのは、解散ができないからだ。選挙が嫌いだからだと言った。福田さんはとっても良いジェントルマンだけど、戦いが嫌い、選挙が大嫌い。だから辞めて選挙ができる男を選ぶんだと。で選ばれたのは麻生太郎。この男がまた選挙をしないから、支持率がどんどん落ちている。

 

田勢 ちょっと良いですか。先ほど(福田首相の辞任会見で「私はあなたとは違う」と言う言葉を引き出した記者は見事だ、と)のように思っていられる方が日本には多いと思う。そしてこれは物凄く怖いことだと思ってる。
 内閣総理大臣というのは、自分たちが選んだ衆議院、参議員の議員が本会議で投票して指名される。指名されて天皇が認証して、初めてそのポストに就くんですね。物凄く重い、これ以上重いポストはないんです。そういうポストについている人間が、さほど目に見えた失敗もない、スキャンダルもない、しかしながら自分は国家運営の最高責任者が務まらないと、そこで降りると。
 そういう記者会見で果たして他人事のように喋る人がどこにいますかと、なぜあの記者は聞いたのかと。私には目立とうとしていたとしか思えないのです。私は、それは最近の政治記者の物凄く悪いところだと思うんですね。NHKが全国に生中継しているわけで、あれほど目立つ場はないんです。最後まで全部放送するんですね。そこでこの記者は目立とうとしたと、必ず評判になるんですよ。評判になるためには、総理大臣が怒ることをきけば良いんですよ、簡単なことなんです。私はそういう席に40年いたんだからすぐわかる。
 本当のジャーナリスト仕事は、足で稼いで、事実を集めて、自分が書かなければ明らかにならない、歴史を変えるようなことをやることです。しかしそういう仕事を今、誰もしていないんですね。

 

田原 目立とうとするのは良くないの?

 

田勢 いやいや。

 

田原 スクープっていうのは全部目立とうとするわけで。

 

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田勢 すなわち私は、やっぱり国家運営の最高責任者に対しては一定の礼儀をもって対応すべきではないかと。
 たとえば最近私はアメリカの民主党員の友人に会った際に、ブッシュを相当批判したんですよ。すると最後に彼は、「外国人のお前にそんなことを言われる筋合いはない」と怒り出しました。
 やっぱり、総理大臣は日本国のしかるべき憲法の手続きに基づいて天皇が認証した最高のポストにいる人間だから、いかにジャーナリストといえども、一定の礼儀というのは必要なんじゃないかと思います。このまんまやったら、誰も内閣総理大臣になりたい人いませんよ。散々バカにされるだけですから。

 

田原 金平さん、今の田勢さんの意見どうですか?

 

金平 記者会見で一番聞きたいことを聞かない、というのでは記者会見の意味はないと思います。
 なぜ夜討ち朝駆けの非公式な方法が優先されるかが、私には分かりません。例えばアメリカのホワイトハウスの記者会見では誰もが争って目立とうとします。聞くべき時に正々堂々と聞かないという会見だと、単なる形式に過ぎなくなる。だから僕は、会見の際に最高権力に対する敬意を払わなければならないということは理解できません。

 

田勢 それはまず、ホワイトハウスでは日本とは異なり、昨日今日に記者になった者が番記者をやっているわけではないということと、どんな大統領でもアメリカでは一定の礼儀をわきまえていることが関係しているのではないでしょうか。

 

田原 野村さんに聞きたい。番記者に何にも知らない新人をつけるのが最大の問題だと思います。なぜそうするのでしょうか。

 

野村 総理大臣に会うことだけが目的ではないからです。総理大臣のところにどんな人が出入りするか、党と官邸の関係、各省との関係が良く見えるところに彼らはいます。

 

田原 だからベテランを送ればいいんじゃないですか。

 

野村 おっしゃるとおりです。だから新聞社の政治記者は新米の番記者にはレポートだけさせて、上に判断させている。
 1972年に、佐藤栄作首相が「新聞記者は出て行け」といい、TVだけの引退会見をした事件がありました。私たちはそれまでは「記者会見では大事なことは聞くな。大事なことはサシで聞け」と言われていたんです。記者会見の場で重要なことを聞く記者はむしろバカにされていました。 しかしその後、時代は変わりました。TVにうつるときに「大事なことは後で、サシで聞けばいいや」というように同じ姿勢でやっていたらダメです。問い詰める状況を作る側にまわっていることを我々記者も認識しなければいけません。

 

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