鈴木孝也さん

震災時、いちはやく地元情報を発信   ラジオ石巻 取締役相談役 鈴木孝也さんに聞く

 東日本大震災による大津波で、甚大な被害を被った宮城県石巻市。電気、水道、通信とライフラインが途絶える中、地元の人が一番欲しい情報を発信し、人と人をつないだのは地元のコミュニティ放送「ラジオ石巻」だった。震災当時の放送運営に携わっていた鈴木孝也(すずき こうや)さんに、地元ラジオの強みについて振り返ってもらった。

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助け求めるメールがラジオに殺到

―震災発生時のラジオ局の様子はいかがでしたか。

 地震が発生した時は録音した番組を流していました。(地震発生時のラジオ番組の録音を聞きながら) 午後2時46分に地震が起きて、この後無音になっています。災害放送に切り替えているところです。あわてたようなアナウンサーの声が入ってきます。

鈴木さんの著書『ラジオがつないだ命』の表紙

鈴木さんの著書『ラジオがつないだ命』の表紙

 「こちらはラジオ石巻です。大きな地震が発生しました。まだ揺れが続いています。火  を使っている方は火をすぐに止めてください。安全な場所に避難してください。海岸、沿岸近くの方は津波に注意してください。今すぐ海岸から離れてください。高台に避難してください」

 発生当時、スタッフ全員が会社におり、皆無事でした。交代しながら今のような発生の情報について放送していました。その時はまだメールが通じていて、リスナーからたくさん届きました。「今屋根の上にいます」、「子どもがいます」、「助けてください」と、助けを求めるのがほとんどだったんですね。数えきれないくらい頻繁に来ました。普通だったら警察とか消防とかに助けを求めるけれども、なぜラジオに来るだろうと不思議に思いますよね。それは、電話も通じず、情報が寸断されていたっていうことなんです。だからラジオではこちらのメールアドレスを伝え、「情報ください」と呼びかけていました。それでもこんなにひっきりなしにくるものなのか、と強く思いました。しかし、その日の午後7時半ごろに停電になり、放送は途切れてしまいました。

震災当日の夜に放送がダウン

 放送局には送信所が別にあり、高い場所にアンテナを設けて放送しています。ラジオ石巻は市内の日和山という所に立てています。スタジオの放送が切れ、送信所に行けばなんとか修理できたのですが、街が冠水して行けない状態でした。それが13日のお昼ごろまで続き、その間全く放送できていません。ちょうど自衛隊の特殊車両がやって来たのでそこにお願いし、ラジオ石巻の中継車が後をついて送信所にたどりつきました。送信所と中継車内にある放送の機械を接続して、再び放送ができました。

―再開できた後の番組はどのような内容でしたか。

 再開して間もないころの放送内容は、主に安否情報でした。「(○○さん)無事ですか、私はこの避難所にいますから」、という情報を流したんですね。手書きの安否確認カードを作り、ラジオのボランティアの方たちが避難所に持って行き、メッセージを書いてもらったものを回収しました。一日200通くらいは来ましたね。ラジオを聞いていなくても、口コミとかで知った人もいたようです。

 あともう一つ多く放送したのは、避難所の避難者名簿です。当初は石巻で相当数、ピークで5万人くらいいましたが、避難者の名前を全部読むように努力しました。この安否確認カードと避難者名簿を読みあげるだけで、1日の放送は全て終わってしまいます。10日ほど、アナウンサーは声を枯らして続けました。また、読みあげる際に個人情報の問題がありましたが、そういうものを点検する余裕が全くありませんでした。結果的には問題も起きなかったし、むしろ情報を得た人たちは安否が確認できてよかったという感謝の声がありましたね。

 しばらくして、今度はライフラインや行政のお知らせといった生活情報が増えました。どこにいけばお風呂に入れるとか、水道とか電気ガス、交通関係どうなっているのかなどですね。さらに、復興の進行状況や、復興を応援するイベントのお知らせが放送の中心となり、今も続いています。 

―現在、災害エフエムとして放送していますが、以前と何が変わったのでしょうか。

東日本大震災関係の資料=ラジオ石巻社内

東日本大震災関係の資料=ラジオ石巻社内

 震災発生6日目の3月16日、ラジオ石巻は石巻市の委託を受け、臨時災害放送(注)として「石巻災害エフエム」の活動をスタートしました。震災から半月くらい経ち、リスナーから「もっと心を和ませるような音楽番組とか、通常の番組とかを復活しないんですか」という声が出てきました。総務省にとって、今回ほどの大規模の震災も、長期にわたる臨時災害放送も初めての体験です。ですから、災害情報以外にも、いろいろな番組を徐々に増やしていくようにしました。

 当初は流さなかったコマーシャルも途中から許されています。震災当初、災害放送局としての運営補助金は出ましたが、今は中央の企業からの応援と共に、自力で運営しています。ラジオ石巻はもともと民間企業で、収入源の第一がコマーシャルですので。しかし、スポンサーが被災され、数は急に減ったままです。

 今は自作番組「復興へ1・2・3! はつらつ・らじいしワイド」と、エフエム、J-WAVEなど外部からの番組を半々で放送し、一日中災害放送ではありません。ほぼ通常の番組に戻ってきている状態です。

  (注):臨時災害放送局とは、災害が発生した際に、市町村などが災害対策情報の提供を目的とし、臨時に開設できるエフエム放送。阪神・淡路大震災の経験を踏まえて、1995年2月に制度化。既存のコミュニティ放送局は空中線電力の上限が20W(㍗)だが、臨時災害放送局は原則100Wまで認められ、広範囲まで届けることができる。今回の震災では東北地方24の市町が開設した。

震災で見直されたラジオの強み

―その他のメディアと比較した中で、ラジオの強み、とりわけ地域ラジオの強みとは何でしょうか。

 速報性と、細かな生活情報が伝えられることです。被災を通じて、一番住民が欲しいのは報道や解説よりも、地域の情報のようですね。コミュニティ放送の場合、災害情報で重要なのは震災が発生した後の処理です。もちろん、新聞は新聞の役割があるだろうし、NHKはNHKの役割がある。メディアそれぞれが互いに補完し合っていくのでしょう。

 また、ラジオは震災時も電池があればつながります。以前は他のメディアに押されていましたが、今回の件で見直されたことは確かでしょう。ラジオ局の責任も大きくなりました。

―これからの地元密着型のラジオ放送局として、どのような計画がありますか。

 当分は震災関連の情報を重点にしていかなければなりません。以前ほど取材に出かけることができなくなっていますが、こちらのスタジオに人を呼んでインタビューする方法をとっています。市内外に関わらず、身近な地元の人や中央から来た人にここへ立ち寄ってもらい、おしゃべりしてもらう。震災関連の番組は、節目が来るたびにやっており、関連番組も続けています。

 また、災害エフエムとしての状態がいつまで続くのかという心配はあります。ここは最大の被災地なので、復興に向けた情報を今後も発信するという使命を持ち、続けていきたいと思います。

【2012年10月26日取材】

 

 取材を終えて  私にとって、流行りの音楽を知るために聞くFMラジオですが、震災時には一番の情報源になるということを改めて学びました。今まで経験したことのなかったような被害に見舞われる中、地元のラジオ局がその時々に一番重要な情報を発信したことは、住民にはとても頼もしかっただろうと思います。何が起こったという報道だけでなく、その瞬間を生き延びるための細かな情報もまた伝えるという地域視点は忘れてはいけません。また、鈴木さんはリスナー側の被災体験を『ラジオがつないだ命』という本に記録しています。私たち一人一人が東北地方の経験を学び、日ごろから非常事態に備える必要があると強く意識しました。(斉藤明美)

・ラジオ石巻 FM76.4
http://www.fm764.jp/
 
・今後に備えて 臨時災害放送局開設などの手引き(PDF)
http://www.soumu.go.jp/soutsu/tohoku/saigai_portal/pdf/fmtebiki.pdf
 
・ラジオがつないだ命 FM石巻と東日本大震災 (鈴木孝也 著)
http://www.kahoku-ss.co.jp/fmishinomaki.html
 
 
※この記事は、2012年度J-School秋学期授業「ニューズルームB」(担当教員・瀬川至朗)を中心に作成しました。石巻地域メディア取材班のメンバーは、太田啓介、斉ガンユウ、斉藤明美、段文凝、藤井栄人、藤本伸一郎です。

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