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やはり修行は修行だった?―坐禅の世界

「坐禅」と聞いて何を思い浮かべるだろうか?―棒で肩を叩かれる?足がしびれそう?一休さん?
ここ何年か、坐禅などを体験できる「プチ修行」が静かなブームらしい。なんでも癒しや心の清めが効果としてあるとか。中でも坐禅は体験会を開いているお寺も多く、初心者でも気軽に参加できるとして人気が高い。その実態に迫ってみた。

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  なぜ今坐禅?なんのために?

  「今だからというのはよく分かりませんけれども・・・まぁ皆さん現代社会に閉塞感を感じていらっしゃるのでしょうね。出口が見えないといいますか。その社会への不安とどう対峙していくのか、そのための精神的なものを求めて坐禅にいらっしゃるのだと思います。」

  そう話すのは、曹洞宗玉寶山長光寺の住職。

 

  長光寺は、欲望の迷宮とも称される巨大繁華街、新宿歌舞伎町のすぐ隣に位置している。 「こういう(歌舞伎町のような)場所こそ坐禅をする場が必要なのです。社会が豊かになればなるほど、人間は複雑になる。坐禅は、頭の中をすっきりさせることで、悟りを目指します。自分(自分の範囲)を作り上げているもの―名前、所属、これまでの記憶など―を全て取り払ったところに本来の自分がいるのです。肩の力を抜いて坐禅を実践する。そうして苦しみの原因を見て、それを肥やしにしてもらうきっかけを作れたらと思います。そのために私たちはただ淡々と黙って行っていくだけですよ。」

 

イメージと現実のずれ

  長光寺では月に2回、坐禅体験会が開かれている。初心者向けとリピーター向けの回に分けられており、年齢、性別、職種、果ては国籍を問わず、様々な人が多く訪れるそうだ。昨今の「ブーム」現象もあってか、初心者の回は人数が多すぎて毎回全員が場内に入れなくなるほどらしい。しかし、リピーターとして継続的に訪れている人は全部で20名ほどとのこと。坐禅場に収まりきる人数だ。そもそも「ブーム」ではないのか?

  「メディアが取り上げる坐禅と、実際に行うそれとでは似て非なるものです。」長光寺の坐禅会に参加し始めて3年になるという宮下さん(男性)は語る。

  「実践してみると、聞いたり見たりしていたものとは違うと気づきます。足が痛くなるなど辛い部分もあるからではないでしょうか。」

  なるほど、実際に体験してみるとその言葉の意味がわかる。

  悲しいかな、頭の中が絶えず騒々しい。隣の人の呼吸音が気になり始めたり、背後に近づく住職の存在に緊張したり。口の中にたまった唾液をどうしようか悩むことも。そうかと思えば、ふと眠ってしまいそうになり慌てて姿勢を正す。正直リフレッシュするどころではない。

 

坐禅することこそが至上目的

  「禅は癒しではありません。そのような目的を持ってするものではないのです。やったからといって(リフレッシュやダイエットなど)何かが変わる訳ではありません。本来の禅は目的や理由など、『話すもの』ではないのです。ただ坐ることを実践する。そうすることで本来の自分を発見するものなのです。」

  どうやらなぜ坐禅をするのか?というのは愚問だったようだ。私たちはすぐ物事に意味を見出したがるが、坐禅に対しては意味を問うことこそ無意味なのだ。坐禅自体がある意味無意味ともいえる。

  イメージだけで禅を捉え、気軽に足を踏み入れるとそのギャップに面食らうことになる。

  とはいえ、こうして禅は「話すもの」ではない。少しでも気になったら・・・きっかけこそなんでもいい。黙って坐ってみればいい。

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外部リンク:長光寺