煙突のある家の歴史

 私の自室の本棚を飾る一枚の写真がある。その写真には、大きな煙突のある民家を背景に、にこやかに笑う三人の老人が写っている。一人は、今年85になる私の父親で、あとの二人は地元民。村の長老とこの民家の現在のあるじである。場所…

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 私の自室の本棚を飾る一枚の写真がある。その写真には、大きな煙突のある民家を背景に、にこやかに笑う三人の老人が写っている。一人は、今年85になる私の父親で、あとの二人は地元民。村の長老とこの民家の現在のあるじである。場所は中国東北部、四平という街から一時間ほどの小さな農村。この写真は、2007年の夏、家族で同地を旅行した際の大切な記念である。

 私の父親は、中国東北部で生まれ、一九四五年の敗戦までその地で生活した。二〇〇七年の中国東北部への旅は、その父親にとっていわば六〇年ぶりの「里帰り」であった。彼が学生時代を過ごした大連、工場勤めをしていた瀋陽は、すでに近代的な大都市に変貌していて、かつての面影を偲ぶのは困難であったという。ただその農村だけが、彼の記憶の中にある「満州」の姿をありありととどめていた。写真に写る民家は、南満州鉄道会社の保線工として働いていた養父とともに、父が小学生時代を過ごしたその家そのものであったからである。


 夏の暑い日であった。事情を聞いた現地のガイドが、父のかすかな記憶を頼りに、その小さな村に分け入って、懸命に場所を訪ねてくれた。「このあたりに、日本人が住んでいた場所はないか。」「ある、ついてこい、案内してやる。」こんなやりとりがあり、村人が一軒の家に案内してくれた。「見覚えがある、でも、自分が住んでいた家は、もっと大きかった気がする」と父。そうこうするうちに、ほぼ村人全員が集まってきた。子供から老人まで二〇人くらいである。みんなでがやがや相談が始まり、一番の長老がいう。「あの向こうにロシア人が建てた家がある。このへんでは一番大きな家だ。」こうして私たちは、あの大きな煙突のある家にたどり着くことができたのだ。父親が、子供時代を過ごしたあの家に。事情を聞き、庭はおろか、部屋の中まで案内してくれるその家のあるじ。急に蘇ってきた中国語で、たどたどしく感謝の言葉を述べる父親を見て、村人は皆、わがことのように喜んでくれた。


 この写真をながめながら、私は「歴史」の複雑さを思う。ロシア人が建て、日本人が接収し、現在中国人が暮らすこの鉄道沿いの家。それはそのまま列強の権益の衝突の場、大日本帝国の中国侵略の前線、そして解放と発展の舞台という中国東北部の歴史の縮図である。その過程で奪われていった無数の人命の重みを、私は、この家の歴史に感じないわけにはいかない。かつてそこで暮らした私の父親も、疑いなくそうした歴史の一部を構成しているという認識は、日本人として歴史を学ぶ私を、これまで幾度も暗澹たる気持ちにさせてきた。日本と中国とのあいだには「不幸な歴史」が存在し、その認識のギャップをめぐり現在も深刻な対立が存在する。私の父親が青年期までを過ごした中国東北部の歴史は、今後もその論争の焦点でありつづけるだろう。


 しかし私は、この写真を眺めるたびに、そうした重い歴史的な課題を考え続けるための勇気をもらっているような気にもなる。かつての激動と戦乱の地で、かくも穏やかで親切な人々の生活が営まれていること。私はこのことを、彼らの笑顔とともに忘れないでいたい。たしかにそれは平凡でありふれた生活かもしれない。しかしその生活の倫理は、かつての「侵略者」を、遠来の客として歓迎してくれるほどに、広く、かつ深いものなのだ。いったいどのようにしてそのようなことが可能なのか。その答えを見つけるために、私は、彼らの平凡な日々の暮らしの歴史を、もっと深く知りたいと思う。


 私はいま、いつかあの煙突のある家の歴史を書くことを夢想する。ロシア人によって建てられ、日本人である私の父がかつて住み、そして現在は、あの親切で穏やかな人々が暮らしているあの家。線路沿いの小さな村で、一〇〇年以上にもわたり、様々な人々の暮らしの舞台となってきたあの家。いったいこれまでに誰がどのように、そこで暮らしてきたのだろうか。そして彼らは、どのようにしてそこに住み、そしてどのようにしてそこから去っていったのか。私はそれを、そこで暮らした(そして現在も暮らしている)人々の喜びや悲しみとともに、語ることができればと思う。そうすることで私は、あの写真の笑顔の意味に、少しでも近づいたことになるのだろうか。

【執筆:梅森直之(政治経済学術院 教授) 構成:詹抒雯】