アインシュタイン1-1

「半白のモヂャ頭、相対性博士」来たる!!!

1922年,アインシュタイン来日

アルバート・アインシュタイン。相対性理論などの学問的大発見や第二次世界大戦後の平和活動により、今でも世界に影響を与え続けているこの天才物理学者が、生涯一度だけ日本を訪れていたのをご存知だろうか。時は1922年、計43日間に及んだその旅の軌跡を、当時の新聞報道とともに振り返ってみたい(写真は早稲田大学来校時のもの)。

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 そもそもなぜ日本に?

  当時、アインシュタインは革命的と言われた相対性理論の発見(1915)などにより、既に世界的に名の知られた存在で、物理学者の最高峰、ベルリン大学の教授を務めていた。ちなみにノーベル物理学賞を受賞したのが来日の翌年(1923年)、さらに知らせを受けたのは、日本へ向かう道中でのことだったという1。

  この世界的科学者を日本に招聘しようと考えたのは、新興出版社であった改造社の社長、山本実彦である。哲学者・西田幾多郎との雑談のなかで、アインシュタインと相対性理論の存在を知った山本は、石原純や長岡半太郎2などからその業績の偉大さについて聞かされるうちに、徐々に招聘の意思を固めていったとされる3。

    そして1921年9月、企画が本格的に動き出した。当時パリにいた特派員をベルリンに派遣、さらに手紙のやり取りを行うなどして交渉に当たった。条件面で折り合わず、一度は断りの手紙を受け取りながらも説得を重ね、ついに1922年3月に承諾を得るに至る4。

   一方のアインシュタインは、この旅の目的について、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著書で知った日本人や日本の生活を自分の目で見て研究すること、科学上の国際関係を改善することを挙げていた5。

アインシュタイン・フィーバー 

    10月8日にフランス・マルセイユを出帆したアインシュタインは、上海を経由して11月17日に神戸港に到着、翌日東京に降り立った。どちらの地においても熱烈な歓迎を受けたという。その様子はまるで、現代のハリウッドスターのような扱いだったようだ6。

   しかしよくよく考えてみると、アインシュタインは天才といえども一理論物理学者にすぎない。いったい、こうした歓迎ムードはどのように形づくられていったのだろうか。

   朝日新聞の場合、アインシュタインという名前が最初に紙面に登場したのが1920年10月20日。内容は相対性原理講演の告知であり、名前も「アインシュターン氏」となっている。その後相対性理論についての解説記事が1921年4月から掲載され始める。

    このようにして徐々にアインシュタイン=相対性理論を唱えた天才科学者というイメージが固まっていったとみられる。相対性理論をもじった唄や言葉がはやったという記録もある(例えば相対性を「あいたいせい」と呼び変えて、相対性散歩=デート、相対性理論を実行中=恋愛中など)7。来日前に輸入上映された、相対性理論について紹介する「アインシュタイン映画」も盛況を博したようだ8。

  そこに飛び込んできた、ノーベル賞受賞のニュース。人気に拍車がかかったのは想像に難くない。

早稲田にも来た!!! 

   長い航海を終えたアインシュタインを待っていたのは、北は東北、南は九州と列島を縦断しながら各種イベントをこなしていく、あわただしい毎日だった。そのなかでも特に時間を割いたのは、大学訪問だった。東京に着いた翌日(11月19日)に慶応義塾大学を訪問したを皮切りに、全国9つの大学に足を運び、学術講演を行ったり、歓迎会に参加したりした。

    その道中、彼は早稲田大学にも足を運んでいる。残念ながら新聞には取り上げられていないようだが、当時通訳をやっていた稲垣守克氏の日記と早稲田学報の記事から、その日の様子を垣間見ることができる。1922年11月29日、1万人近い観客の前にアインシュタインが姿を現すと、割れんばかりの拍手と歓声が起こった。まさに押しつぶされんほどの熱気だったという。最後は校歌で送別したとのことだ。

    その後もアインシュタインは、講演会、歓迎会に芸術鑑賞(+しばしの観光)と全国各地を精力的に訪ね回った。さすがに終盤は疲労困憊となってしまい、一時は早期帰国も検討したようだ9。

 
 
 

アインシュタインが残した言葉

    長旅を終えたアインシュタインは、福岡・門司港から楼名丸に乗り、日本をあとにした。その間際に彼が残した言葉を、当時の朝日新聞東京版はこのように伝えている。

「予はまづ第一に日本国民の歓待を心底から感謝しなければならぬ。そして地球上に斯くの如き謙譲にして貧徳なる国民の存在することを牢記しなければならない、世界各地を旅行した予は未だ會て斯くの如き快よき国民に出會したとない。日本の自然や藝術は美しく親しみが深い。また一種独特の価値ある家屋の構造に就ても日本国民は欧州かぶれのしないやうに希望してやまない。私は味噌汁も吸ひ、畳の上にも座つて見た、短い経験であるが日本国民の日常生活を直に受入れるとが出来た外国人の一人であることを信ずる」10

    いかにも海外の著名人が言い残しそうな「リップサービス」がこれでもかと並んでいる。そもそも記者はアインシュタインが話すドイツ語を理解できたのか、そして本当にこんなことを言ったのかなど疑問は尽きないが、約90年たった今となっては検証できそうもない。ただ「欧州かぶれしないように」という言葉は、現代の日本人にとっても耳が痛い。そこには優れた先見の明が感じられる(たとえ記者の戯言であったとしても・・・)。

   他にもアインシュタインがこの旅の途中、世界政府の盟主を日本が担うことになるという内容の「予言」を残したなんて話もあるが、出典が見つかっておらず、ほぼデマとして結論付けられている11。実は本当の「予言」ってこれじゃないの?そんな興味を残しつつ、締めくくりとしたい。

番外編:当時の新聞はこんなかんじ

  この旅の様子を伝えた当時の新聞は、どのようなものだったのだろうか。

  まず目を引くのは、今とは大きく違う「見出し」だ。例えば、

「半白のモヂャ頭 相対性博士来る」12

   当時の日本人と比べてアインシュタインの髪型が記者の目に際立って見えたのは確かだろうが、ここまでストレートな表現は、今ではなかなかお目にかかれない。

「初講演に五時間の大努力 一語も漏らすまじと聴音器を放たぬ福田博士 満足気なるア教授」13

   その見出しだけで状況が伝わってくる。

    一方、当時の印刷技術がどうか。文字のフォントが急に大きくなるのは活版印刷の特徴だろう。日々の型作りが全て手作業だったと考えると、漢字全部にルビがふっているのはまさに職人技といえそうだ。新聞が長年「製造業」分類されてきたのも、これを見れば納得できる。また少々読みにくいが、名前に聞き覚えのある会社の広告が並んでいるのも、歴史を感じることができて興味深い。

 
1 1922年11月12日付朝日新聞東京版。
2 石原は、東北帝国大学教授、ベルリン大学留学中にアインシュタインに師事した。長岡は東京帝国大学教授、原子の土星モデルの提唱者として世界的に有名。
3 金子務「アインシュタイン・ショックⅠ 大正日本を揺るがせた43日間」(2005、岩波書店)108頁-115頁。
4 来日交渉の紆余曲折については、金子務『アインシュタイン・ショック』を参照。
5 1922年11月18日付朝日新聞東京版。
6 1922年11月18日付朝日新聞東京版、および金子(2005)45頁-48頁参照。
7 金子(2005)168頁-174頁
8 1922年12月9日付朝日新聞東京版、映画の内容については金子(2005)180頁-184頁参照。
9 金子(2005)223頁-224頁。
10 1922年12月29日付朝日新聞東京版。
11 予言の概要についてはこのリンクを参照                                                                                              12 1922年11月18日付朝日新聞東京版。                                                                                              13 1922年11月20日付朝日新聞東京版。