2011年11月16日
文・写真:山田和雅
見えなくなって、世界を知った
都内で鍼灸院を営む内田勝久さん(43)が視力を失ったのは23歳のときだった。だが、その後の活動は多彩だ。鍼灸師として働く一方、ギタリストとして数百人規模のソロコンサートを行い、失明とともにはじめた陸上競技では高跳びで世界視覚障害者選手権大会に出場し、3位を記録したこともある。内田さんのユニークな活動の源には何があるのか。
2011年11月16日
文・写真:山田和雅
都内で鍼灸院を営む内田勝久さん(43)が視力を失ったのは23歳のときだった。だが、その後の活動は多彩だ。鍼灸師として働く一方、ギタリストとして数百人規模のソロコンサートを行い、失明とともにはじめた陸上競技では高跳びで世界視覚障害者選手権大会に出場し、3位を記録したこともある。内田さんのユニークな活動の源には何があるのか。
――視力を失ったのは、どのような経緯でしたか。
「僕の両親は二人ともに視覚障害者で、遺伝性の病気でした。子供のころから徐々に悪くなり、23才のときに完全に見えなくなりました」
――衝撃は大きかったですか。
「それほど大きなものではありませんでした。いずれは自分もそうなることが分っていましたので、準備万端、ではありませんが視力が落ちてきたときには、杖を使って歩くようにしていました。むしろ失明した当時は上京したばかりで、楽しいことに忙しかったですね」
――楽しいこととは。
「始めたばかりの陸上競技と音楽活動です。ぼくは長崎の田舎で生まれ育ちました。長崎にはまず来ない外国人アーティスト、たとえばポール・マッ カートニーとかスティービー・ワンダーのコンサートも、東京では聴きに行ける。うれしかったですね。どうしても行きたいと思えばひとりでも行きました」
――なぜ音楽をはじめたのでしょう。
「小学校5年生のとき、通っていた盲学校の創立80周年の記念に、クラシックギタリストの山下和仁さんが来たんです。それを見たとき、たった六 本の弦でこれだけの音を出せるんだ、と感動しました。それでギターを弾き始めたんです。20年後の、創立100周年のステージには今度は僕が呼ばれて演奏 しました。そのときは、本当にギターをやっていて良かったなと思いました」
――音楽を通して伝えようとしたメッセージは何ですか。
「不可能はない、ということですかね。僕は『戦場のメリークリスマス』のようなピアノ曲をギターにアレンジして演奏していたのですが、鍵盤の多 いピアノの曲を弦六本のギターで表現するのは大きなハンディが伴うんですね。しかも僕は特別な調弦をせずに、どこにでもあるギターでぱっと表現したかっ た。そういう意味で、不可能はない、ということです」
――何が不可能を可能にすると思いますか。
「何でしょうね。ギターのうまい人はいっぱいいます。でも人と同じことをやっていても、自分のところには出番が回ってきません。人ができないことをやって初めて評価される。それで、あまり人がやらないことに手を出す。そういうことではないでしょうか」
――陸上競技をはじめたきっかけは何でしたか。
「20年前、友人に連れられてトレーニングセンターに行ったときです。車椅子の陸上選手がウエイトトレーニングをしていました。その人は体温が 上がるようなことはやっちゃいけないと言われているはずなのに、氷で体を冷やし扇風機で風を当てて練習していた。そこまでしてやる必要はないことかもしれ ない。でも、そこまでしてやりたいと思ってる。それがとてもかっこよかった」
――なぜ陸上競技の中でも視覚障害者には難しい高跳びや幅跳びを選んだのですか。
「たしかに高跳びや幅跳びは、危ないからやっちゃいけない、といわれるような競技です。僕は幅跳びのときは35mの助走を取って17歩目で踏み 切るわけですが、音だけを頼りにやっています。砂場の前でパートナーがたたいてくれる手拍子の合図に向かって走り、跳びます。目の見える人には想像できな いことかもしれません。三段跳びになるともっと難しい。それでもやるのは、ギターと一緒です。不可能はないと思ってるからです」
――世界大会で2度、銅メダルを獲得しました。何を感じましたか。
「まだまだ、ということですかね(笑) そして次は頂点しかないな、と」
――内田さんにとって「世界一」って何ですか。
「自己満足ですね。金メダルをもらったからといって、お金をもらえるわけではないですし、社会的に大きな変化が起こるわけでもありません。だからもう、自己満足、それだけです」
――見えなくなったことで得たことはありますか。
「海外に行って現地を知ることは、見えなくなったからこそだと思います。もし見えていたら、たぶん海外には行かなかっただろうし、長崎からも出 なかっただろうと思います。逆に見えていたらもっといろいろなことができたかというと、そうは思わないですね。見えなかったからこそ、できたことの方が大 きかったとかなと」
「よく障害者か、そうでないかという話になりますが、五体満足の人が皆しあわせかというと、不満のある人もいます。だから僕は、結局、一緒なん だと思います。頑張っている人、頑張っていない人。やっている人、やっていない人。本人が本人の人生を楽しんでいればいいですし、本人がしあわせ一杯で最 高だと思っていれば、周りがどう見ようと、それでいいと思うんです」
取材を終えて
内田さんを取材していて感じたのは、「生き方」への自然さだった。目が見えていないことや障害に対して、とかく先入観を持って接してしまいがち だが、内田さんから返って来る答えは苦労話でも努力話でもなく、どうやって自分らしく生きていこうか、というひとりの「本気で生きる人」の答えだった。目 が見えても見えてなくても、結局は「どう生きるか」は自分次第なのだと思った。
※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームE」(刀祢館正明講師)において作成しました。