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「最後の山賊」 北アルプス黒部源流のいま昔を語る

北アルプスの山奥に親しみを込めて「最後の山賊」と呼ばれる人がいる。北アルプス最奥部にある三俣山荘の主人、伊藤正一さん(87)だ。航空機エンジンの開発者でありながら、終戦を機に北アルプス最奥の地、黒部に踏み入り、山賊とともに黒部に生き、黒部の大自然を見守り続けてきた。

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   クラッシック音楽が緩やかに流れる山荘2階のコーヒーラウンジ。窓から槍ヶ岳から奥穂高に続く山々を眺めながら、サイフォン式の温かいコーヒーを伊藤さんに入れてもらった登山客は数知れない。山麓の湯俣から三俣蓮華岳まで1日で結ぶ伊藤新道を開拓した。北アルプス最奥の地に三俣山荘、湯俣山荘、黒部五郎小屋、雲ノ平山荘と次々に山小屋を開き、登山客を見守り続けてきた。戦前からこれまでの黒部の軌跡を語れる人はもう数少ない。雲ノ平山荘のリニューアルに際し、「最後の山賊」に黒部のこれまでの歩み、雲上の楽園「雲ノ平」のいま昔を語ってもらった。

  雲ノ平は北アルプス山域の標高約2500メートルにある日本で最も標高の高い溶岩台地だ。湿地の中に無数の小さな池が点在する池とうが有名で、高山植物の宝庫でもある。北アルプスの最深部に位置するため、日本最後の秘境とも呼ばれている。

  

  -初めて雲ノ平に入ったのはいつごろですか。

  「前々からこの黒部源流域に興味があった私は、1946年に三俣小屋と水晶小屋の権利を買い取り、1948年に初めて雲ノ平に足を踏み入れました。その時は、そのあまりの自然の美しさに仰天しましたよ。『とんでもないものを発見したぞ』と思いましたね。それからは、この雲ノ平の素晴らしさを多くの人にとにかく伝えたいという思いでここまでやってきました」

  「日本庭園やアルプス庭園など、いろんな呼び名をつけたのも多くの人々に親しんでもらいたかったからです。だが、まず何をするにしても道が必要でした。当時、雲ノ平へは烏帽子小屋か槍ヶ岳を経由して登るルートしかなく、最低でも2日かかった。そこで、新たな道を自ら開拓することにしたんです。それが伊藤新道です」

  伊藤新道は雲ノ平へ最短で向かうルートとして、1956年に伊藤さんが自費で開通させた。信濃大町側の湯俣から湯俣川を遡上して三俣山荘に通じている。かつては登山者の間でも人気ルートであったが、度重なる岩壁の崩落などにより現在は使われていない。

  -伊藤新道を開通させるのに何年ぐらいかかりましたか。

  「周囲の山を調査するだけで7年、完成には10年余りかかりましたね。ケモノ道すらほとんどない状態だったので、毎日シラミつぶしに歩き回り、鉈(なた)でハイマツを切り進めて道を徐々につけていきました。1956年に開通させてからようやく雲ノ平に山荘を作り始めることができたのです」

  -雲ノ平山荘の建設で、一番苦労したことは何ですか。

  「やはり資材の運搬ですね。伊藤新道ができたとはいえ、あのころは今のようにヘリコプターなどなかった時代ですから、資材の運搬はすべてボッカたちがやっていました。資材の運搬だけに3年、完成に5年もかかりました。資材は平均で重さ50〜60キロ、120キロもする発電機を背負って行くこともあった。履物はわらじか地下足袋で雨具もない。それにボッカたちの食料が一番の問題だった。食料を運ぶだけでも荷物がいっぱいになるので、ボッカたちの食料を運ぶためだけの新たなボッカを雇わなければならなかった」

  長野、岐阜、富山の三県の境をなす三俣蓮華岳を中心に広がる黒部川の源流域だ。北アルプスの切り立った山々に囲まれ、地形が非常に険しく、川の流れも激しい。

  -当時の黒部源流領域はどんな様子でしたか。

  「今とは全然違いますよ。動物がそこら中にいましたからね。ハイ松の中を歩けば50メートルに一度ぐらいはクマの赤子の鳴き声が聞こえ、三俣小屋のあたりはイワナくさいほどでした。ウサギは簡単な仕掛けだけで毎朝5〜6匹、最高は23匹捕れたこともありました。それにカワウソまでいましたからね」

  カワウソ(ニホンカワウソ)はかつて、日本全国に広く棲息していたが、1979年以降目撃例がなく、絶滅したとも言われている。人にイタズラをするという伝承が各地である。

  -本当にカワウソがいたのですか。

  「そうです。当時、山の中で『オーイ、オーイ』と聞こえても、それはバケモノだから返事してはいけないという噂(うわさ)があったんです。でも、あれはカワウソの遠吠(ぼ)えだったように私は思うんです。彼らは騒いだり、じゃれたりするのが好きな性格ですから。それに、私は実際にイワナのいない硫黄の沢をカワウソが軽快に渡るのを目撃したことがあります。このことをカワウソの専門家に話したところ、それは移動中のカワウソに間違いないと言ってくれました」

  -今はカワウソを見ることはできないのですか。

  「今はもう見ないですね。私がカワウソを見なくなったのは、1969年の北アルプスが大荒れした年です。その年ちょうど黒部ダムが満水になり、鉄砲水がダムを越えてしまったのです。高瀬ダムの建設が着手されたのもこの年です。この年を境に黒部に異変が起きたのは明らかです。カワウソが黒部から消えたのも、このことと無縁ではないと思います」

  -今後の抱負を語って下さい。

  「戦時中、私は陸軍航空研究所でジェットエンジンの開発に携わっていました。そして戦後、私が山に入りもう64年がたち、その間に航空機の性能は確かに上昇しました。しかし、まだジェットエンジンの根本部分はまったく進歩していないと私は思っているのです。だから、私はこれからその研究に全力を注ぎたいと思っています。具体的な内容はまだ言えません」

  -新しくなった雲ノ平山荘について、今後どのようになってほしいですか。

  「この景観を壊さずに自然とうまく共存して欲しいです。ここを訪れた人には、それぞれに何か感じていってもらいたいです。あとはすべて息子に任せていますから心配ありません」

 

 

リニューアルしたばかりの雲ノ平山荘

 

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*この記事は、PJnewsでのインターンシップで取材し、PJnewsに掲載したものを転載しています。
http://www.pjnews.net/news/881/20100913_13?pageID=2

 

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