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教員コラム:経済危機と経済報道(若田部昌澄教授)

 リーマン・ブラザースの破綻から早一年。マスメディア各社は連日、世界的な経済危機を報じている。しかし100年に一度の経済危機と言われるこの時期に、メディアが本来果たすべき役割を、彼らは全うできているだろうか。経済危機においてメディアが担う使命とは・・・。

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経済報道の現状に不満

 私は経済学研究科に所属している。その私がなぜ政治学研究科のジャーナリズム・コースに関与することになったのは、端的に言って経済報道の現状に対して強い不満を抱いているからだ。そして、この不満はどうも私だけのものではないようである。

 たとえば、農業経済学者の神門善久氏(明治学院大学教授:『日本の食と農』NTT出版、2006年でサントリー学芸賞)は『偽装農民』(飛鳥新社)で、日本の農業政策の混迷ぶりを憂えているが、その原因の一つは識者・マスコミの認識不足であるという。もちろん、「農業問題ほど、マスコミと識者が虚構を流布している分野は珍しいのではない」かと限定句付きではあっても、「マスコミや論者の虚構を打破してこそ、農業問題の核心に迫ることができ」るとまでいうのだから、相当な不満である。
 そういう不満を少し詳しく展開するとおおよそ次のようになるだろうか。

現在の経済報道が抱える問題点

 第一に、対象についての勉強不足がある。急いでつけくわえておくが、ジャーナリストの中には倦まず弛まず勉強を続けている優れた人も少なくない。しかしながら、取材相手の主著を読んでいない人は論外として、話題の新書・単行本はおろか、ネットで簡単に手に入る海外の基本的なニュースすらおさえていない人がいる。そして残念なことに日本のメディアが伝える海外のニュースは誤解をまねきかねないものがあり、ときとして意図的ではないかとまで思う(それゆえ、ジャーナリズム・コースでかりに英語を苦手としている学生がいるならば、苦手意識を克服することを強く勧める)。
 
 第二に、そうした勉強不足と関連して経済学の知識の欠如がみられる。何も難しい、最新の理論や実証結果のことをいっているのではない。たとえば下火になったものの、つい最近まで穀物価格の高騰にかこつけて食糧危機を煽る議論が力をもっていた。しかし神門氏が指摘するように、最近の穀物価格の上昇は「実質値」でみるとさほど高くない。実質値というのは、物価上昇分を勘案した上での価格のことである。穀物以外にも経済にはいろいろな財やサービスがあり(たとえばこのジャーナリズム・コースを含む大学院の授業料!)、それらの価格も変動している。穀物の「実質的な」価格は、現時点での貨幣表示の「名目的な」値とは異なり、そうした変動を調整したもので示されるべきだ。平たく言うと、物価が上昇しているわけだから、穀物価格の実質的な価格は一時期から比べるとこれまで低く下がってきており、ピーク時ですら1980年代の平均水準まで少し高くなったというわけだ。こういう区別(名目値と実質値の区別という)は、経済学科ならば1年生で学ぶ経済学の基本中の基本である。しかし、残念ながらこういう基本が踏まえられていることはめったにない。おそらく「基本こそが難しい」のだろう(国立天文台の渡部潤一氏は、かつて「太陽を中心にして地球が1年間に1回まわっていることを知らなかった」人に取材を受けたことがあるという。岡本暁子ほか編『科学技術は社会とどう共生するか』東京電機大学出版局、2009年、165頁)。

 第三に、そのわりには結論がすでに決まっていることが多いから不思議ではある。日本のマス・メディアはすでにあらかじめ全体的なシナリオを作ったうえで論考やコメントを依頼することが多い。たとえば、ある経済誌が「インフレ再燃」という特集を組むとしよう。そうするとそこには、インフレが再燃しないかもしれないという逆の結論はまず載ることがない。ひょっとしたら別のところですでに複数の仮説の提示とその検証という作業を行った結果として、取材や執筆依頼があるのかもしれない。しかし、普通は取材をもとにして仮説を検証するのではないかと思われる。第二の点とも関わるが、そもそもインフレならばなぜどういうときにインフレになるのか、という解説がきちんと載ることもまた珍しい。

経済政策と世論1

 さて、今回の経済危機である。今回に限らず、経済危機はジャーナリストにとって絶好の活躍の機会でもある。とはいえ、危機は人々の関心をそこに集中させるとともに、人々の認識を一定方向に誘導し、特定の反応に結びつきやすい。とくにアメリカでも起きたのは金融危機をめぐるポピュリズムの噴出である。日本の場合も、1995-6年には住宅金融専門会社(いわゆる住専)への公的資金投入をめぐって世論が沸騰したことがある。要するに、なぜ銀行を救済するのか、という反発であり、世論はほとんど反対論一色であった(その頃の新聞社説―たとえば95年12月20日のそれ―を今読んでみることを学生にはお勧めしたい)。

経済政策と世論2

  こういうメディアが、増幅する人々の世論あるいは「空気」が、危機に対応する政策担当者にも影響を与えたといわれている。この8月にデイヴィッド・ウェッセル(David Wessel:世界有数の経済紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』の経済学エディター)のIn Fed We Trust: Ben Bernanke’s War on the Great Panic (New York: Crown Business)が出版された。これは、経済ジャーナリストはこういう本を書かなくてはならないという素晴らしい見本である。副題が示すように、本書はベン・バーナンキ議長率いる連邦準備制度理事会(FRB:アメリカの中央銀行)を中心に今回の経済危機への対応を詳細に追っている。

 今回の危機のクライマックスの一つが、2008年9月15日のリーマン・ブラザーズ証券破綻にあることはまず間違いない。今となっては破綻を放置したことは政策当局者の誤りであると評価されているし、その評価にほぼ間違いはない。だが、なぜ破綻するに任せたのだろうか。しかもその年の3月16日にはベアー・スターンズ証券の破綻を救済したにもかかわらず、なぜリーマンは救済しなかったのだろうか。ウェッセルによれば、当時のハンク・ポールソン財務長官は、まさにベアー・スターンズ救済後の厳しい世論を気にしていたという。ポールソンは「自分はミスター・ベイルアウト(お助けマン?)と呼ばれている。私には二度とできない」と述べ、公的資金投入を極力避けようとしたことが伝えられている(Wessel, p.14)。

メディアは役割を果たしたか

 この危機の結果がどうなるかはいまだ不確実である。しかし、金融危機においては、結局のところ公的介入が避けられないことが多い。特に大規模な危機においては避けられないと言ってもよい。この世の中は貨幣を用いて取引が行われる。貨幣なき市場経済は、デンマーク王子の出てこないハムレットである。その貨幣の動きが変調をきたすとき、それはいわゆる実体経済に多大な影響を及ぼす。金融危機が起きた時に必要なのは銀行を救済することではなく、銀行が担っている取引の決済機構を救済することである。これは、19世紀の末以降、バジョット原則として経済学ではおなじみのものであった。そしてアメリカでFRBが設立される大きな理由の一つは、この金融危機への公的対応の必要性であった。もしもメディアに世論にもかかわらず正しい政策へ世論を導くことを期待するのだとしたら(もちろんそのような期待そのものが間違っているという議論はできよう)、今回の危機でメディアはその役割を果たしたのだろうか。

経済危機と日本のメディア

 もっとも、今回の経済危機について私が問題と考えるのはむしろ日本の経済メディアだ。最大の問題は、どうも日本の状況についての正確な理解が欠如しているように思えることだ。日本はアメリカよりも深刻な状況に陥っている。よく「100年に一度」、「大恐慌に匹敵する」といわれる今回の経済危機だが、実を言うと鉱工業生産指数でみる限りアメリカの落ち込み方は大恐慌ほどひどくはない。それに対して日本は、すでにして大恐慌時よりもひどい。最近は若干持ち直しを示しているものの、それでも相当に悪い。たとえばバリー・アイケングリーン(カリフォルニア大学バークリー校)とケビン・H・オルーク(ダブリン・トリニティ・カレッジ)が1929年からの大恐慌と現在の経済指標の落ち込み方を比較してみたところでは、アメリカの場合大恐慌ほどひどくなく、むしろ日本のほうがひどいという(A Tale of Two Depressions)。

 なぜ金融危機が起きず、サブプライム関連の金融資産の損失も少ないといわれている日本でこういう状況なのか。よく外需依存型だからだという。だが日本の国内総生産(GDP)の圧倒的部分はいわゆる内需である。それにもかかわらず、なぜ日本のGDPの伸び、すなわち経済成長は外需に依存するようになったのか。ここには興味深い疑問があり、本来ならばジャーナリストの好奇心をくすぐるはずである。

経済ジャーナリストに期待するもの

 なお、神門氏も指摘するように、メディアの責任を問うことは学者・識者を免責することではない。それどころか、学者・識者の認識不足・意見対立・機会主義的行動は重大な問題である。ことに経済危機に関連して最近では経済学の「失敗」を問う意見も高まっている。イギリス女王が昨年11月にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを訪問した際に「なぜ誰も信用収縮を予測できなかったのか」という質問をしたという。女王にとっては気軽な質問だったのかもしれないが、経済学者としては放置できないことになったのだろう。今年7月にイギリス学士院の経済学者たちが公開書簡を発表し、それがまた話題になっている(BRITISH ACADEMY)。

 経済危機における経済学の役割、あるいはその「失敗」、そして経済危機が経済学に対して最終的に教える教訓は何か。あるいは政策形成そのものに経済学に限らず専門知が果たすべき役割は何か。こういうときに出てくるのは専門知の全面否定論である。しかし、これもまた極論ではある。経済学は確実に役に立っている部分があるからだ(私自身の考えは一部「経済学にも『危機』の教訓」『日本経済新聞』7月6日朝刊で述べた)。これらは興味深い疑問であり、ジャーナリストの好奇心をくすぐるはずである。こうした好奇心を質の高い記事に結びつけることがジャーナリストに期待されているところである。

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