第81回センバツ出場・日本文理(新潟)大井道夫監督インタビュー

 2008年11月15日、秋の高校野球日本一を決める明治神宮大会が東京の神宮球場で開幕した。  1回戦の試合を終えた監督さんは、ユニホームから着替え、待ち合わせをしていた宿舎のロビーに現れた。開口一番、「なんでも聞いてく…

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 2008年11月15日、秋の高校野球日本一を決める明治神宮大会が東京の神宮球場で開幕した。  1回戦の試合を終えた監督さんは、ユニホームから着替え、待ち合わせをしていた宿舎のロビーに現れた。開口一番、「なんでも聞いてください!」と、野太い、それでいて快活な声で話し掛けてくれた。    10月に行われた秋季北信越大会で優勝し、今月21日から開幕する第81回選抜高等学校野球大会への出場を決めた、本学O.B.の日本文理(新潟)・大井道夫監督(67)に尋ねた。
<会心のチームを追い求めて>
 秋の北信越大会を危なげなく勝ち上がり、2年ぶり2回目の優勝を決めて神宮大会に乗り込んできたが、1回戦で鵡川(北海道)に6-11の敗戦。投手陣が打ち込まれた上に守備の乱れも重なり、中盤までに大量失点を喫した。  「エースが早い回に失点してしまったので、足が地に着かない試合になってしまった。でも、打つ方はそこそこ通用するんじゃないかな」  今大会でも好投手の一人に挙げられていた西藤投手の速球に対して、打線は決して振り負けてはいなかった。    日本文理は、これまでに春2回、夏4回の甲子園出場を果たしている。2006年春には、横山(阪神)、栗山(鷺宮製作所)という2人の好投手を擁し、80回を数えるセンバツの歴史の中で唯一、未勝利県だった新潟のチームとして初勝利を挙げると、そのままベスト8に進出した。監督自身も1959年夏の甲子園で準優勝した宇都宮工のエースで、4試合を一人で投げ抜いた豪腕投手だった。しかし、現在の日本文理は、県内では打撃のチームで通っている。「戦うのには好投手がいるチームが楽だが、なかなか作れない」そうだ。  投手育成のポイントは、「指導者の辛抱」だという。「頭ごなしに伝えても、子どもが納得しなければだめだと思う」と、徹底的に選手と話し合いをして指導する。  新潟といえば全国でも有数の豪雪地帯だが、同校には室内練習場がない。県内の強豪と呼ばれる他の私学は持っているというが、学校の関係で設備が整えられないそうだ。  その分、冬場、投手陣は温水プールで週2~3日、水泳の先生が作るという2時間のハードなメニューをこなす。また、「1年間ボールを離させない」という指導方針のもと、週2日は捕手を立たせて30~50球を投げ込んでいる。    モットーは、「楽しい野球」だ。しかし、負けたら楽しくない。そのためには、「勝つ野球をしよう」と選手に伝えている。辛い練習は、あくまで楽しい野球をするための布石だ。  その中でも、投手に対する要求は厳しい。エースの条件を、「『あいつで負けるならしょうがない』とナインに思わせるようにならなければならない」とする。普段の練習から、他の選手は投手陣がどのくらいがんばっているかを見ている。この日打ち込まれた伊藤投手は、まだこの域には達していないそうだ。  監督自身、高校時代は、他の選手が5回やる練習を10回やっていた。それを少しでもサボれば、「何をやってるんだ。お前はエースだろ!」と罵られた。  「ちくしょうと思いながらも、『よし、やってやろう』と。他の選手と同じメニューではだめなんです。やっぱりエースは別。チームの中心なら人の倍やらなきゃ。それは当然だと思う」  言葉に熱がこもった。    監督歴は今年で22年になる。「これまでに会心のチームはありましたか」と尋ねると、笑ってこう話してくれた。  「ないなぁ、まだまだ。投手が5回までに1、2点に抑えて、後半勝負できるチーム。ミスがなく、相手のミスにつけ込む野球ができたらいいんだけど、なかなかね……。理想は高いもんね」  会心のチームを追い求め、北信越の老兵はセンバツを待つ。 =next=
<「成せば為る」の信念の下>
 ここ数年、県内シニアの主力選手が入るようになり、ライバル校の新潟明訓を抑えて甲子園出場を重ねるようになった。「チーム作りがだいぶ楽になった」というが、それまでの道のりは、決して平坦ではなかった。    宇都宮工(栃木)3年時に、エースとして1959年夏の甲子園で準優勝。早大でも活躍し、卒業後は栃木で家業をしながら、母校のコーチを務めた。転機は、86年に訪れる。  息子さんがお世話になった方から、当時、まだ新設校だった日本文理の野球部の強化について相談を受けた。その内容は、野球を強くすれば生徒が集まるかもしれないという安易な考えだったというが、「2~3年でいいから、チームの下地を作ってくれないか」と頼まれて新潟行きを決意する。  しかし、行ってみると驚きの連続だった。野球部は、部室はおろか練習道具すらない。十数人しかいない部員の中に、外野まで打球が飛ぶ選手はひとりもいなかった。「何もかもめちゃくちゃだった」という状況に辞表を出そうとするが、同じ関東から学校再建のために新しく来た理事長に引き止められた。  「大井さん、お金はないが、野球は任せる。お願いだから子どもたちを見捨てないで欲しい」  退職はおろか、2~3年では帰れなくなった。    実家で商売をしていたという夫人に送ってもらった月30万円の仕送りと、早大O.B.のつてで道具を揃えた。それでも、安定して1~2勝を挙げられるまでには5年を要したという。  当時の状況について伺うと、「元々、新潟は公立志向。選手が欲しいと保護者にお願いに行っても、『監督さんには悪いんだけど、中学校の進路相談に行ったら、担任の先生に”お宅の息子さん、この成績取ってて、何が悲しくて文理に行かなきゃならないの?”と言われたんで……』と、私の前で平気な顔して言うんですよ」と笑った。  同じ私学でも、ライバルの新潟明訓は日本文理に比べ学力的に上である。有望選手を探しに中学野球を観に行っても、「ウチは欲しくて行くが、明訓さんは『この子がウチに来たいというから観に来た』という違いがあった」。当時は、スカウティングの時点ですでに差がついていた。  しかし、顧問の先生などによる進路指導の成果もあり、部員が東京の大学へ進学するようになると、中学指導者や保護者たちの見方が変わってきたそうだ。    高校野球指導における信念は、「社会で通用する人間を作るための修行の場」だ。  「技術で勝負すると、技術で上回るチームには勝てないと子どもたちには伝えています。高校野球は、どんな形であれ教育の場。野球を通して、仲間を作ることや親に対する感謝の気持ちを持つということを意識して指導しています」  監督自身、かつて早大入学後、けがをした。全国区の選手が集まる中、キャッチボールもできず、もう投げられないんじゃないかという不安の中で、野球を辞めようとまで思ったという。そんな時、助けてくれたのは仲間だった。「『大井、そんなことでどうする。治してからやっても間に合うじゃないか』と言ってくれたのは同級生。今でも感謝してますね。仲間の声がなかったら、おそらく辞めていたかもしれないな……」と振り返る。    現チームは、キャプテンが中心になって話し合い、監督の知らないところで学校周辺や駅前の掃除を自主的に行っていたそうだ。  「地域の人に、『監督さん、いつもありがとうございます』と言われ、なんのことかわからなかった。これには参りましたよ。逆に子どもたちに感謝しています」  監督の思いは、選手に届いている。
<大井道夫(おおいみちお)> 0903-oya_s.jpg 1941年9月30日生まれ。栃木県出身。64年早稲田大学第二商学部卒。  宇都宮工3年の59年夏、4番エースで甲子園大会準優勝。早大でもレギュラーとして活躍する。母校である宇都宮工のコーチを経て、86年から日本文理監督就任。春2回、夏4回の甲子園出場を果たす。学校職員。  2008年10月に夫人に先立たれ、現在は一人暮らし。休日は、学校から車で20分のところにある温泉につかってのんびりする。  座右の銘は、上杉鷹山(うえすぎようざん)の「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」。監督を引き受けた時から、いつも自分に言い聞かせている。
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ルポ「都会の少年スポーツ~中学生の選択~」(4月号)
※この記事は、08年後期のJ-School講義「ニューズルームG」において、冨重圭以子先生の指導のもとに作成しました。

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