映画評『大統領暗殺』

 昔から“擬似ドキュメンタリー映画”というジャンルには不思議とそそられる魅力がある。『スナッフ/SNUFF』や『食人族』のような“擬似”というより “似非ドキュメンタリー”と言うべきキワモノから、『スパイナル・タップ』と『ドッグ・ショウ!』で知られるクリストファー・ゲストの名人芸に至るまで、その面白さの秘密は、おそらくはドキュメンタリーというジャンルにすべからくついて回る“作為性”というものに対して、観客側が知らず知らずのうちに自覚的であるが故に、その様式を忠実に再現することの可笑しさの裏に見え隠れする作り手側の鋭い観察眼が一層際立って見える、ということなのだろう。

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 しかし、同じく“擬似ドキュメンタリー”であっても、昨年の『セプテンバー・テープ』や本作品のように“笑い”のオブラートに包むことを敢えて避け、正攻法で“擬似”に徹した作りとなっている作品の場合は、作り手の持つ問題意識というものがストレートに表現されることになる。  

 つまり、観る側にとっては、そこで描かれている仮想現実が“現実”であるのか“フィクション”であるのか、登場しているのが当事者なのか俳優が演じている役柄に過ぎないのか、といったことはほとんどどうでもよいこととなり、その“擬似ドキュメンタリー”を通じて作り手側がどのような問題意識を投げかけているのか、そしてそれがうまく表現されているかだけが鑑賞のポイントとなる。  
 その意味で、本作品のことを、反ブッシュ的立場の者による不謹慎なキワモノと見做す態度は的外れということになる。当然ながらブッシュ政権への批判を強く自覚している人ほど、そのブッシュ大統領が暗殺されて、在職中の政治的判断が検証されることなく殉教者のごとく扱われることなど願い下げであろうから。  

 本作品の白眉は、ブッシュ大統領個人についての作り手側の想いや評価を徹底的に排除し、仮にいまこの二〇〇七年という時にアメリカ合衆国の現職大統領が暗殺されたとすると政府はどう対応するか、メディアはどう報じるか、国民はどうそれに反応するか、について直近の過去六年(つまり9・11後)くらいの経験から導き出される推察を見事なまでの現実味を持って視覚化することに成功していることである。  

 もちろん、現在を扱っている作品であるが故に、作られた途端に情報が古びてしまうという面はある。本作品でも北朝鮮に対するアメリカの外交政策の転換のように、日々情勢が変わっている案件についてはそのディスアドヴァンテージが目に付いてしまう。  

 だが、紛れもなくアメリカ社会の一部を構成しているはずの在米ムスリムの人たちに対しアメリカ国民がどのように見ているか、逆にムスリム側がアメリカ社会をどう見ているかについての作者の洞察力は、9・11後を描いた多くの映画の中で、『セプテンバー11』のミラ・ナイール監督編に匹敵する深さである。

 
※「キネマ旬報」2007年11月上旬号より転載許可済。映画『大統領暗殺(映画公式サイト)』については同誌当該号にて特集していますので、詳しくは同誌をご覧下さい