吉田多見男氏インタビュー

 研究職とはいえ、一企業のサラリーマンがノーベル賞を受賞し、世間を驚かせた。2002年、今から4年前のことだ。テレビに映る奥ゆかしい田中耕一・島津製作所フェローの姿は、今も記憶に新しい。田中さんの研究成果によって開発に成功した、たんぱく質の質量分析装置。この装置の開発は、島津製作所特有の研究風土があったからこそ、そして、田中さんら5人の研究チームの固い結束があったからこそ可能になったといえる。

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 当時、田中さんが属していたチームのチームリーダー、吉田多見男・島津製作所基盤技術研究所長(取締役技術研究担当)にお話をうかがった。 チームの結束の重要性について、吉田さんはこう強調した。 「優秀な人が集まればうまくいくというものではない。重要なのはチームと協調性。目標を一にした5人が協力して研究していくことが重要なのだ」。  

 個々人を見極めた上での役割分担も肝要だと吉田さんは語る。もともと田中さんは電気の担当だった。しかし、電気に非常に強い研究員が他にいたせいか、どことなく熱が入っていない。チームには化学出身の研究者がいなかった。そこで、田中さんに化学を担当させたところ、熱心に研究に打ち込むようになったという。  

 当時、吉田さんらのチームは、チームとして二度目の研究目標に取り組んでいるところだった。一度目の研究は失敗に終わった。正確に言えば失敗したのではない。吉田さんのチームによって、2年半かけて装置開発は完成し、そのまま製品化へと進むはずだった。しかし、同様の製品がすでに外国から商品化されていたため、製品化を成し遂げられなかった。これは企業としては失敗ということになる。研究計画が終わったことで研究チームも解散し、各々新しいチームで別の研究を開始することになるはずだった。  

 しかし、吉田さんは他の4人と相談し、このチームで研究を続けることはできないか、話し合った。同じチームなのだから、前よりも高い目標を掲げなくては社長の許可は下りないだろう。そう考えた吉田さんは、途方もない研究計画を書き上げた。それが、1年半かけて、たんぱく質の質量分析装置を開発する計画だった。半年後、田中さんが装置開発につながる貴重な発見をし、それがノーベル賞に結びついた。  

 島津製作所の研究風土も、欠かすことのできない要素のひとつだ。初代島津源蔵の理念が、今も脈々と引き継がれている。独特の、貪欲で自由な研究風土である。 明治10年に、日本発の有人水素気球を浮かべることに成功したのが、初代島津源蔵だった。さらに、レントゲン博士がX線を発見した翌年の明治29年に、日本で初期のX線写真の撮影に成功したのが、二代目島津源蔵だ。以降、新技術を数多く生み出し、科学技術の発展に寄与した。  

 この失敗もいとわない精神、貪欲に新技術を開発する精神、自由な発想を大切にする精神が、田中さんのノーベル賞受賞をもたらしたのではないだろうか。