島津の自由な研究風土

 島津製作所フェローの田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞したのは2002年。企業の無名の研究者だった田中さんの受賞は、日本中を驚かせた。なぜ、島津製作所からノーベル賞が出たのだろうか。同社の歴史や研究風土を知ると、その偉業を成し得た理由が見えてくる。

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 田中さんの受賞は、たんぱく質などの生体高分子を壊さないで、その質量を測る質量分析法「ソフトレーザー脱離イオン化法」の開発に世界で初めて成功したことが評価されたからだ。  

 島津製作所が、この分野の研究に着手したのは、今から約20年前のことだ。研究は5人のチームによって進められた。当時のチームリーダーだった吉田多見男・島津製作所基盤技術研究所長(取締役技術研究担当)は、「自由に研究をする雰囲気とチームワークが、ノーベル賞受賞につながった」と指摘する。  

 当初、電気工学科出身の田中さんには、電気の研究を任せていたそうだ。しかし、なかなかやる気を見せないため、吉田さんは、試料作成という、化学の知識を要する仕事を与えてみた。田中さんは熱心に化学の勉強をし、その面白さに一気にのめり込んでいったという。 自由な研究風土とは、メンバーひとりひとりのやる気と、それを引き出すリーダーによって作られるようだ。  

 京都市中京区の島津製作所の本社から東に約4キロ。木屋町二条の創業の地に島津創業記念資料館がある。そこには、1875年の創業以来の機器などが多数展示されている。初代島津源蔵の作った理化学器械や、「発明王」である二代目島津源蔵が1896年に撮影に成功した初期のX線撮影写真なども展示されている。  

 20世紀半ばには、汎用ガスクロマトグラフや電子顕微鏡など、「日本初」「世界初」と付くものが多い。そのほか、内部で電気を発生させる卵型のガラス管や、回転させると色が変わる七色板などの教育用機器は、科学の面白さを伝える製作者の意図がうかがえる。 独自の発想で、新しいものを作り出してきた島津。吉田さんが語る「自由な研究風土」が、創業当初から根付いていたことがわかる。  

 近年、島津では、長期的な事業戦略を立て、技術開発のロードマップを作成するという新たな試みを始めている。現在、吉田さんは、その責任担当を務めており、「今までばらばらだった研究に方向性を決めれば、格段に効率は上がる」と自信を見せる。「自由な研究風土も変わるのですか」という問いには、「それがなくなったら島津はつぶれますよ」と笑いながら答えた。 創業から受け継がれてきた会社の持ち味を活かしつつ、事業戦略に力を入れる島津製作所の新たな挑戦に期待したい。

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